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お酒について、そしてトートロジーの孕む矛盾について(2023/04/10の日記)

・なーんかアルコールの許容量が日に日に減ってきている気がする。肝細胞が急激に死滅してる?

・一年くらいお酒と付き合ってきて、最近やっと確立できたスタンスとして「酔うために飲まない」というのがある。今まで過度に酔っ払っていい思いをしたことがあんまりなかったので。酔いたくない、くらい言ってしまってもいいのかもしれない。

・私は人にお酒を紹介するとき、「味が好き」とよく言うようになった。アルコール自体の味が好きとかそういうことではない。純粋な「おいしさ」のための飲酒をするようになったのだと思う。

・だからあまり酎ハイは飲まなくなった。ノンアルコールの清涼飲料水を飲めばいいので。逆にビールやハイボールなんかはやっぱりノンアルコールでは体験できない味がするので好んで飲む。アルコールの有無はもはや関係なく、それがどんな味なのかだけを判断しているのだろう。

・いや、ほんとにそうか? 例えば、サッポロビールや角ハイボールの味が完全に、それはもう完全に再現されたノンアルコール飲料が販売されたとして、果たして私はそれまでと同じような感覚でそれらを飲めるのか?

・多分無理な気がしてきた。そもそもアルコール飲料とノンアルコール飲料では飲む時の心持ちが全然違う。それもかなり根源的感覚のところにおいて。アルコールが入っているというだけで(その飲料にアルコールっぽい味が感じられるかとは無関係に)、飲む時の、なんというか「異物感」みたいなものが付与されている気がする。私はたぶんビールを飲むとき、ハイボールを飲むとき、たまに気が変わって低アルコールの酎ハイを飲むときにさえ、ほんの少し、ほんの少しだけ「ためらって」しまう。そしてそれはファンタグレープを飲むときにはない機微だ。

・それが、そのためらいこそが、飲酒という体験の中核をなすものなのだとしたら。

・「アルコールを体内に入れる」ことを自覚していることこそが「飲酒」を定義するということになる。しかし、アルコールを自覚せずに飲酒することなんてそうそうない。ということは、最終的に「飲酒が飲酒を定義する」という結果だけが残っていることになる。

・これはひどい循環定義だ。自己参照だ。トートロジーだ。だって「飲酒とはつまり飲酒のことである」と自明の事実をうそぶいているようなものなのだから。

・しかし、ある種幸福なトートロジーである。飲酒が飲酒以外のなにものでもないとしたら、飲酒の目的は飲酒であり、手段もまた飲酒である。目的と手段の一致が示しているのは、倒錯性というよりむしろ、強固な整合性である。また飲酒体験によって飲酒の目的が達成され、それ以上もそれ以下も求められないので、飲酒になんらかの効果を期待する必要がない。目的論的観点から酒に依存することがないので、ある種楽観的かつ冷静に酒と付き合っていけるだろう。

・しかし、ある種危険なトートロジーである。飲酒のために飲酒するという状況は、よく考えたら、いやどう考えても健全ではない。目的と手段の一致も、ただその二つの境界線が曖昧にされたに過ぎないのかもしれない。だとすれば整合性なんてものはなく、ただ漠然とした「飲酒」という目的が残るのみで、それが達成されることのないまま酒を飲み続けることになるだろう。その先に待っているのは避けようのない破滅である。

・このトートロジーが持つのは「矛盾を孕んだ自明性」だ。お酒と付き合うということは、この矛盾と付き合っていくということでもある。

・ああ〜〜プレモルうめ〜〜〜〜〜〜!!!!!!

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