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「斬新なアイデア」を生み出すには何をすればいいのか?

技術のカンストはアイデアの競争に向かう

I'llです。
だいたい19世紀末から、科学技術は急速に発展し文明の本質そのものを変えてきました。宗教や伝統よりも経済的利益を優先し、経済的利益は生活を便利にし、文化の多様性を育んできました。
いくら科学技術によって人の生活が変わっても、人間の欲求や本質は変わりません。しかし道具は人間に使われるのみながらも、道具によって行動を規定され依存することで、人類は自らの様態を著しく変えていきました。これまで個人の技術力で社会の根幹を支えてきたシステムは、企業のサービスとその資本力に代替されています。相互扶助の概念は、社会保障に姿を変えました。
科学技術によって個人の技術が自動化されると、ある程度の品質の商品やサービスが世に溢れ、競争によって水準を上げざるを得ません。しかし需要と開発能力が伸び悩む時は、必ずどこかで来ます。そうなれば、ブランド力と価格帯、アイデアの切り口が比較要素となり、技術レベルに要求されてきた需要がシフトします。つまり、技術開発によってクオリティが一定の水準に達すれば、競争のフィールドはマーケティングに移行するのです。そこはもはや「良いものを作る」のは当たり前であり、「良い発想」から生まれた工夫で差別化を図るようになります。
これは企業の製品開発の話ではありません。私たち個人レベルの「生き方」の話でもあります。

レッドオーシャンを生き抜く方法

AIについては世界中で喧々諤々の議論がありますが、日本ではウェルカム精神で認識されています。多くの人はそれほど深刻に考えていないのでしょうが、日本は著しく社会が混乱しないと何ごとも本腰を入れない国なので、いずれ欧米から一周遅れで議論が行われると思います。
産業革命後に人間は頭脳労働にシフトして雇用を多様化する余地がありましたが、AIの最大の問題は頭脳労働すら根こそぎ無力化する可能性があります。つまり、機械は作る人と操る人、整備する人管理する人が必要になりましたが、AIは作る人がいれば成立し、雇用の多様化を促しません。それどころか高学歴のホワイトカラーも社会的役割を失い、産業構造そのものを揺るがす危険もあります。
さて、産業革命以降のテクノロジーによって、個人が一生かけて磨き上げるスキルが陳腐化されていきました。簡単にクオリティを再現できるようになれば、開発コストが下がることでサービス供給者を大量に産むことになります。
特に現代のイラスト業界は顕著です。デジタル化によって間口が広がったため、クリエイターの数も増えました。もはやクオリティが高いのは当たり前であり、イラストレーターは差別化を図るためにタレント化しつつあります。SNSでキャラを確立したり、自らパフォーマーになってブランド性を高めることすら標準になっています。そこに画像生成AIとAI絵師の参入が加わり、業界全体の求心力が分散し、さらにカオスな状況になっています。
私個人の考えにはなりますが、何がこの状況からの生存戦略の決定打となるかは、「ブランド力」と「アイデア」の二つに限定されると思います。もはやクオリティの面ではカンストに近い水準にあります。その中で、現在すでにフォロワーを有し影響力のある既得権者は、実績を再生産して生き残れる確率は高いと思います。しかし、これから伸びていく若手にとっては厳しい状況に変わりはありません。だからこそ「斬新さ」を求心力に変換し、需要に切り込んでいく必要があります。

言ってみれば、品質の水準がカンストしたレッドオーシャンは、参入者が多ければ多いほど需要の奪い合いになり、サービスの提供者からすれば「くじ引き」に近い様相を呈します。多くの参加者の中で誰かは成功者になりますが、それを決めるのは微妙な時代の空気や消費者の事情であり、揺らぎやすい不定形の需要です。極端に言えば、運や力関係で左右される面もあります。
だからこそ、あえて同じものを作ることは命取りになりやすく、有象無象の中でどう目を惹くかが最も考えるべきポイントになります。
私個人の考えとしては、一発当てるために世相を見切るよりも、好きなことをやってそこそこウケ続けるのも悪くはないと思いますが、しかしどんな人であれ、確実に生き残れる保障もないのが厳しい現実です。

「斬新なアイデア」の出し方

「斬新なアイデアを出せ」とよく言われますが、「斬新なアイデア」のイメージが曖昧なのに、よく言うよな、と思うことがあります。
「斬新なアイデア」には二種類あると思います。「非常識な発想」と「奇抜な合理性」です。この二つは、全く意味が異なります。
例えば、90年代のエンタメに「非常識」であろうとする傾向は強かったのですが、あえて慣習を破ってアンモラルに立ち回ることで斬新さを見せるという手法があります。「新世紀エヴァンゲリオン」はキャラのセックスシーンを夕方の地上波に放送したり、当時はそういったアンモラルな過激さがウケる風潮でした。しかし今日、この方法を取れば炎上するか、あまりにやり尽くされているせいで無反応に終わるかのどちらかです。有名制作会社がポリコレに配慮する過剰なモラルが嫌われている面もあり、作品の面白さに対して常識を軸にする時代ではないのだと思います。そして、常識に反する表現は実に容易く、大して考えなくても再現できるものです。その点で言うと「非常識な発想」が受け入れられる時代ではないのは確かです。
「奇抜な合理性」とは、品質を毀損することなく長所の精度を上げることです。「メリットの比重を変える」「テイストに変化を持たせる」という方法などがあります。「メリットの比重を変える」とは、需要のポイントをそのままに、より別の需要を満たし多機能化するか、単純化してコストの削減を促すことです。「テイストに変化を持たせる」とは違う切り口での発想によって、イメージや需要そのものを変移させることです。このどれもが、企業戦略の中で培われたセオリーです。需要を維持しながら新しいことを始めるのは、いつの時代も人類が直面してきたことなのだろうと思います。
私たちは、今のトレンドや流行を取り入れなければいけないという強迫観念に囚われがちです。しかし、トレンドや流行に気づいて採用する時には、もうすでに流行の中間期に差し掛かっているケースが多いです。時代に一歩遅れたことを模倣するやり方は、むしろやらない方が良かったくらいの結果しか得られないこともあります。
だからこそ、需要を心得ながらオリジナリティを発揮することが重要になってきます。しかしオリジナリティは自然に発生するものではなく、制作者の人格や人生観、世界観に規定される部分が大きいのです。確固としたイメージの軸があり、それを自分で作り出せなければオリジナリティを発揮することができません。
着想の差は、意外とこの部分に明確に現れます。クリエイターの生存戦略には「作家性」は不可欠な要素になっていきますし、そのオリジナリティがブランド力に繋がっていくはずです。運を味方にできる自信がなければ、コツコツ自分を見つめて本質を磨いていくべきなのだと思います。

いくら技術力が高くても、価値観や着想がゴミなら、ゴミが出来上がってしまいます。一昔前ならそれでも微妙に受け入れられたのでしょうが、今は火をつけて遊びためのオモチャにしかならないこともあります。人間の生き方も似たようなもので、いくらテクノロジーで便利になっても、価値観がゴミならゴミみたいな人生を選んでしまいます。それは能力云々ではなく、発想のレベルで間違っているから、間違った結果しか返ってこないのです。
私たち文明人は、科学技術によって人生を何とかしてもらうよりも、価値観を疑い発想そのものを変えた方が近道を進めると思うのですが、ヒトという種が目先のことしか考えられないのも、困ったものです。

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