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「平和」とは何か


久しぶりのご挨拶


お久しぶりです。I’llです。
前回の更新は8月下旬、進行中の作品が終わり次第noteを再開する予定でした。ですがその原稿がトンネルに入ってしまい、色々あってまだ製作中です。
詳しい進捗は「I’ll Qropuis」https://i-llqroquis.blogspot.com/のほうに書いています。
再開後のnoteの計画は立っていますが、やはり原稿が落ち着き次第になると思います。やりたいのは山々なのですが、もう少しお待ちいただけると幸いです。

知らぬが仏、とは言うが…

今、温泉地に来ています。
この数ヶ月の反省をしながら、心身を休ませています。
原稿中、かなりギリギリのマインドでやっていました。あまりにデリケートな時期が続き、ニュースを見たら脳のキャパシティを超えそうな気がしたため、しばらくニュースフィードを停止し、余裕のある時だけチェックするようにしていました。
現在の世界情勢は混沌としています。TVもネットも、あらゆるメディアが不安を掻き立てる情報に満ちています。しかし、一市民である私たちは何も手を打てないどころか、世界を不安に陥れている人々は数百とか数千人の権力者であり、ましてや彼らを止める方法は皆無に近いわけです。
どのみちコミットできない大きすぎる問題には、どれだけリソースを割いたところで無力、それならば目の前の日常的な問題に終始したほうが得策ではないかと思い、ニュースを切って狭い視野で暮らしてみることにしました。
その生活で気づいたのは、世界情勢や社会問題は現実世界のごく一部の概念に過ぎず、気にしても気にしなくても大した実質的な差はないということです。毎日決まった人と顔を合わせ、昨日とほぼ変わりない街を歩く日々は、まるでニュースの世界とは別の時間軸であるかのように感じます。
しかし、いくらマスコミが信用ならなくても、世界で起きている事象は事実なわけで、その余波は間違いなく私たちの生活に影響を及ぼしています。
確かに、体感として情勢を知らずとも問題はなく、それどころか人類の負の行為にストレスを感じずにいられます。しかし安全保障、生活防衛の面で、無関心でいられるほど平和な世の中でないことも確かで、私はそのバランスを取ることが難しいと感じています。
知らぬが仏、とは言いますが、知らなかっただけで大損害を被る可能性もある時代で、幸福度を取るか安全保障を優先するか、というジレンマは確実に存在します。
その中で、個人のレベルの「情報との距離感」、どこまで他者が発信した情報を自分の現実感に組み込むか、その対応能力やセンスが今最も問われていると感じます。

我欲は己の生存性を下げる


私個人の話をさせていただきますと、絵を描く生活は自分との戦いと対話の連続で、それだけでかなりいっぱいいっぱいです。常に自分とやり合っている感覚があり、はっきり言って他人と戦っている余裕がありません。
これまでは誰に対しても敵愾心が強く、打たれたら潰してやるくらいの気概で生きていました。ですが、自分以上に厄介で本質的な敵はおらず、その代わり和解すれば、誰よりも強い味方になりうるのが自分という存在です。
ですから、どこかしらで他者と衝突する暇がないというか、諍いがリスクでしかないと感じるようになりました。それゆえ、自動的に「他人を許そう」と思いますし、実際「俺が俺が」と自分だけ勝ち取る気持ちでいる頃より、人に譲ったほうが楽であることも感じます。
「自分だけがいい思いをしたい」と考えることによって勝つことを要求され、また争いを仕掛けることで敵が生まれます。勝てばいい思いをする代わり敗者から反感を買い、自分が負けたら当然悔しいわけです。
私は勝ち負けにこだわらないだけで、不必要なプレッシャーがなくなりました。勝って気持ちがいいのは一瞬ですし、そのためにどれだけ犠牲を払ったのかを考えれば、やはり他者と競うことに大した価値はないのではないか、と考えるようになりました。
手に入れるまでのフェーズにおいて、入手行為は競争ではないことが望ましいです。様々ある取得手段の中で、他者から奪い取るというのは最もドラスティックで悪辣な方法です。

もし何かを取得した時は、自分の欲しい部分だけ取り、あとは譲るくらいの気持ちのほうが争いを生みません。これが、真の意味で「足るを知る」ということではないか、と思ったりもします。
自分の欲しい分が明確であれば、多くを占有する必要はありません。それどころか、相手とコンタクトを取り欲しい分を譲り受け、自分のいらない分は相手に譲ることで、諍いから遠ざかることができます。
争いがない分、精神的なエネルギーを自分自身に向けることができ、それによってできることも増えていきます。
こういうことを言えば、「他人が譲らなければいつまで経っても手に入らないのだから、現実的に奪い取るしかない」と反論されるでしょう。それもその通りですが、元から何かを手に入れるのは自分の能力次第で、奪い取るのは方法の一つにしかすぎません。他者が手にする権利は元来、他者のものです。その当事者になった時、もし自分が手にしたものの残りを人に分け与えられるか、という話をしているのであって、奪い取る正当性を擁護すれば、それこそ弱肉強食の世界になってしまいます。
「自分だけが良ければいい」という考え方は、倫理的な事柄以上に、生存戦略としても合理的ではなく、自分だけがいくら強くても、周りが敵だらけならば弱者も同然なのではないでしょうか。
だからこそ、自分のことを常に後回しにすることの大切さに、ここ最近、いい加減に気づかされたのです。

自分のために、人に何を譲れるのか

急に大きい話になってしまいますが、世界で起きている様々な問題は、権力者の私利私欲や利権によって誘発されている側面が大きいと思います。
その問題を増幅させているのが大衆のマインドで、その思想すら権力者が再生産したものである可能性もあります。
大衆がプロパガンダを鵜呑みにするのは、情報操作の高度さだけに限らず、情報との距離感や批判能力が狂わされているからだと思います。
それを簡単に変えることができれば、人類は理想的な平和を迎えられるでしょうが、おそらくそれは不可能です。
人間は本能的に感情に根差した生物であり、全てを理性的に判断することはできないからです。社会制度や教育、文化、時代精神、そのどれもが根底に感情があります。
人類はこれからも大きな感情のうねりでしかないでしょうし、だからこそ争いは絶えないはずです。
その中で生きる私、私の周りにいる人たちはそれでいいのかと言うと、現実的な日常を守るためにいつも理性的に行動しなければなりませんし、リスクと向き合って生きていくことに変わりはありません。
確かに、遠目で見れば人間はロクなことをしないんですが、近視眼的に見れば私たちの日常を守ってくれる人たちがいて、私自身もそれに協力をしてこそ、現実社会は豊かなものになるのだと思います。
その現実感を飛び越えて理想や私利私欲に突っ走れば、強調性を失い社会のシステムからドロップアウトせざるを得ず、生存戦略としての失敗を証明してしまうはずです。
そこで大切になるのは、情報との距離感や現実に則した批判的感覚であり、その力によって自分自身や、身の回りの大切な人を守ることができるのだと思います。
社会の大きな流れに抗えない部分もあるでしょうが、世の中にはわざと危険に陥れる情報が溢れています。それを知るほうがいいのか知らないほうがいいのか、それが各個人のレベルだからこそ根深い問題で、その感覚は各々が見出していくしかないのではないでしょうか。
そして、その弱肉強食の世界にとって、足るを知り譲り合うことのできる人は、敵となる隣人になることなく、信頼できる隣人として平和な場所を作ることができるはずです。
自分自身をリスクの低い場所に置くことは、生存戦略において最大限に有利に働きます。それは周りの人だけでなく、自分のためにもなり、それが最もサステナブルであることは、時間がいずれ証明するはずです。

今の世の中は危険になりすぎて、その原因が何かという話になれば取り止めはがなくなります。だからこそ安全保障はもはや個人のレベルになり、民間防衛がマストになってきています。
そんな時代だからこそ、私は人を蹴落とし勝つために努力するのではなく、自分のために何を譲れるのかを考えたりしています。

※「自分のものだけを取り、その他は譲る」という考えについて、あくまで個人のレベルの話であり、国家的な共有財産の話ではありません。防衛や安全保障の面では、市民の一個人を守るために、集団での毅然とした態度が必要であることを書き添えておきます。



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