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嵯峨野の月#122 在るがまま

第6章 嵯峨野6

在るがまま

それは天長元年の盛夏の頃。

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃてい

と般若心経の写経もあと少し、というところでその僧侶は筆を置いて目を休めようと廊下に出た。

青々とした庭の木々に目をやり、その中の一本の木の幹に一匹の蝉がしがみついているのを見つけて、

かなかなかなかな…

と切なく鳴く声からそれがひぐらしだと解った途端、僧侶は強く胸を打たれた。

ひぐらしよ。

この世に生を受けて八年土の中に籠り、やっと地上に出て鳴いて羽ばたいてつがいと出会い、

次代に命を受け継ぐ役目を全うした途端この世を去るさだめの七日間の生を精一杯生きるおまえにしてみれば、

数十年もの生を悩み苦しみ作り上げてはまた壊し、許しあってはまた憎むを繰り返す人間の生なんてとても愚かで滑稽に思えるだろうな。

と羽を震わせてあと数日の生を生きるその小さな生き物に慈悲の眼を向けて微笑んだ途端、

ぐらりと大きく視界が揺れて僧侶は倒れ、お付きの僧たちが慌てて駆け寄った…

夕されば ひぐらし来鳴きな生駒山いこまやま
越えてそが来る いもが目を

夕暮になるとひぐらしがやって来て鳴く生駒山を、越えては帰って来る。妻に逢いたくて。

と万葉集で秦間満はだのままろが詠んだ歌を優しい声で誰かが歌っている。

廊下に佇むあの横顔の美しい女人はかつて身を滅ぼすほど愛したあのひとであろうか?
いや、違う。あのひとは鈴が転がるような声をしていた。ではあの方は。

「母上」

とかすれた声を出して平城上皇へいぜいじょうこうは目を覚ました。

枕辺にはお付きの医僧が我が脈を取り、その横には息子の阿保親王あぼしんのうと阿保の長男でこの年六才になる孫の行平王ゆきひらおうが自分を取り囲んでいる。

「元々弱っておいでだった心の臟が限界なのです…こうして気が付かれただけでも奇跡」

と医僧は帽子もうすの下で老いた顔に苦渋をにじませながらそう告げ、
「そんな、父上…」とぽろぽろ涙を流す阿保と父と祖父の顔を交互に見て幼いながらにこれはただごとではない、と感づいてみづらを揺らして神妙にうつむく行平。

ああ、自分はもうじき死ぬのだな。
と周りの状況から上皇は察し、政変に敗北して何もかも失って出家してから早や十四年。

今ではかやの庵と呼ばれるこの旧離宮で監視付きだが読経三昧で過ごした日々は、

皇子として生まれてこのかた常に人に注目され、息つく暇も無かった自分の人生にかつてない安らぎと、

弟の伊予親王母子はじめ側近の藤原仲成と薬子兄妹、中臣王、そして前妻の藤原帯子ふじわらのたらしこら過去の自分の愚かな行いによって命奪った者たちと、自分の罪に向きあう時間を与えてくれた。

そして

自分が何もかも悪かったのだ。

という境地に至るまで実に十年以上の歳月がかかったことに気づいた上皇は人間というものの往生際の悪さに唖然とし、

人の一生というのは運が良ければ何十年か生きて死ぬだけの、善きに悪しきにつけ自分がやった行いの意味もほとんど解らずにこの世を去る生き物だということに気づいた。

薬子。

あの時自ら服した毒に苦しむ今際の際で

生きて。

とあなたが言ってくれたから私はここまで生きてこれた。

ああ、これでやっと心置きなく逝ける…と平生上皇が目を閉じようとした時、

「お待ちください!まだお逝きになられては駄目です!」

聞いたことのある太い声が眠りにつこうとする意識に割って入った。

何だというのだ?人が死にかけている時に厚かましい奴だな。

と思って煩わしそうに目を開けるとそこには空海阿闍梨と彼が連れてきたと思われる貴人の青年が居る。

見るからに意志の強そうな顔つきをした青年が「父上」と自分を呼び、目に涙を浮かべた時、上皇は全てを悟った。

「阿闍梨、まさか彼の者は」

「そうです、上皇様が一番お会いしたかったお子、高岳親王たかおかしんのうさまです」

そうだった、我が一番の望みは生きて最愛の子、高岳に再会すること。

この期に及んでそれさえも忘れたように自分を誤魔化し逝こうとしていたなんて…最後の力で上皇は目を見開いて高岳の顔かたちをしっかり目に焼き付けた。

高岳よ、大きくなったな。
父と違って逞しそうな男に育ってくれたな。愚かな父のせいで廃太子という憂き目に合わせてしまったがこの先何があってもお前ならきっと乗り越えられると信じている。

「…これで本当に逝ける」

そう言ってから上皇はか細い声で二言三言、空海に向かって囁くとやがて眼を閉じ、ほうっ、と最後の息をいて穏やかな顔で永ながの眠りについた。

天長元年七月七日(824年8月5日)

平城上皇崩御。享年五十一才。

桓武天皇の第一皇子に生まれ、十一才という幼さで立太子して両親から引き離されて過度な期待を受けて心身を病み、縋りついた相手が妻の母という間違った相手だった。

さらに間違った相手を本気で愛したことで政治の中枢は乱れ、同母弟である嵯峨帝との政変に敗れてすべてを失った愚かで哀れな天皇。と後の世の人は口さがなく彼を評価するであろう。

だが、彼は彼なりに地方に参議を派遣することで地方政治の実情と腐敗を見せつけて現地の民を救い上げることに尽力した。

それが却って参議たちの反感を買い、自身の即位礼に三十余人の臣下しか集まらなかった嵯峨帝に

成程、中央が空くとはこういう事か。

という強い危機感と実兄に対する敵愾心を抱かせますます自身を孤立させたのだが。

崩御五日後に平城上皇のもがりの儀が執り行われ、その亡骸は平城宮北側に位置する陵墓、楊梅陵やまもものみささぎに埋葬された。

兄の弔いの儀式を全て終えた嵯峨上皇は退位してもなお弟淳和帝や臣下たちに頼られる暮らしに疲れ、平安京の西方の郊外にある離宮(後の嵯峨院)で体を休めていた。

離宮の東側に広がる人工の林泉(林や泉水などのある庭園)である大沢池の穏やかな水面を眺めながら上皇は兄と高岳親王の面会の許可を得るために冷泉院にまで参じた、というか押し掛けて来た空海の必死の説得と、

「僭越ながら申し上げますが、
最も愛するものに死ぬまで会わせないのが上皇さまなりの報復であることは察しております。

それでも伊予親王さまの痛ましい死よりはぬるい、と。そうお考えなのでしょう?

あなた様の御心の本質は実は抜き身のやいば。ご自分のお心に沿わぬ者は施しなり搦手からめてなり手段を選ばず意のままになさって参りましたが、

この件に関しましては君主としてではなく太上天皇としての大御心おおみこころでのご裁量を願います。
…もういい加減、『赦す』ということを覚えて下さりませ」

正鵠を射た空海の言葉に嵯峨上皇は

自分のような王にだけはなるな

と自分に遺言なさった父、桓武帝のお顔を思い出した。

一体いつからだったろう。即位礼でがら空きの中枢を目の辺りにしたときか?
いや、政変で退位の危機に晒されたときからか?

自分は父と同じやり方で強引に周囲を従わせる暴君になってしまっていた。

と今までの行いとうに空海に本質を見抜かれていた己をまばたきをしてしばしの間強く恥じ、

「あい分かった。奈良の上皇と高岳親王との面会を、赦す。段取りは全て阿闍梨に任せる」

とかつての政変のかたきに対して実に思い切った決断を下した。

「ありがたきしあわせ」

と空海は心から感謝し、その足で奈良に向かって高岳親王が住まう東大寺から急いで彼を連れ出し旧平城宮へ向かい、臨終間際での親子再会を果たすことが出来たのだった。

つい先ほどまで空海が座っていた床の辺りを嵯峨上皇は見つめた。そこからは塗香の残り香がほんのりと漂い、鼻腔を刺激する。
空海からの報告を受けた上皇は

「親子ともども間に合って良かった。亡き上皇…いや、兄の最期の言葉は?」

と聞くと空海は

「ありがとう、神野。その一言だけを遺して逝かれました」

といつも闊達な彼にしては珍しくしんみりとした顔と声で告げ、では、わしはこれから東寺に向かいますので。と慌ただしくその場を下がった。

ありがとう、か。

母を同じくして生まれたせいで常に優劣を比べられ、ついには父に見捨てられる原因となり政変に至るまで憎んだ弟である私にそのような言葉を遺すとは。

人とは、死の瞬間まで精神的成長を続けることが出来るものなのか…と兄の死に際に深い感銘を抱かずにはいられない嵯峨上皇であった。

それにひきかえ齢三十九にもなるのに私ときたら、

気に入った女人には我慢が効かぬ性質たちだし、
子を多く作りすぎて右大臣冬嗣に「少しは房事を控えて下さりませ」と恥ずかしい諫言をされるし、
気が滅入ったらいちいち宴を開いて国費を散財するし、
この財政難に何をやっているのだ?と後世の者から呆れられるであろうな。

「やれやれ、人としてまだまだ修行が足りていないな私は」

と自分を省みた上皇は脇息にもたれ、大沢池から吹く風が涼しく心地よくそのまままどろみの中に入ってしまった…


この日、淳和帝は朝議の席で

「そろそろ我が甥、高岳親王の出家の願いを叶えてやるべきだと朕は思うのだが」

と列席した参議たちの前で発言なさった。参議たちの口からは

「では、高岳親王は皇族のまま出家なさるということですか?」

「過去皇族のまま出家なされた考謙称徳帝や、親王法師として仏教勢力の後ろ盾があるのをいいことに政変を企てた早良親王など大きくまつりごとを乱す先例しかありませんが」

と口々に心配の声が上がったが、

「その仏教勢力は今は力を失っていて脅威ではないし、親王出家の願いは何年も前から我々参議によって留め置かれていた。
『父上皇に出家姿を見せて落胆させるおつもりか』という理由でね。

その上皇様がお隠れになられたいま、高岳親王を止めるものは何もないではないか」

と正論を以って参議たちを説き伏せたのは右大臣藤原冬嗣。

彼はさらに
「それに、東寺での務めを終えたらいずれ高野山へと去ってしまう真言宗空海とのつながりを絶たないためにも高岳さまを空海の弟子にするのは今後の朝廷のために必要だ、と私は思う」
と意見を重ねた。

「では、決を採る。空海阿闍梨のもとでの高岳親王の出家に異議があるものはしゃくを掲げよ」

朝議に臨席した八人の参議たちは右手の笏をそのままに首を垂れた。

「宜しい、ではこの場で高岳親王の出家を認める」

と凛としたお声で淳和帝が下した勅で齢二十四の高岳親王の人生が決定した。


廃太子から十四年間暮らしていた東大寺の自室を引き払うため荷物を整理する高岳の顔はやっとここを出られる解放感で晴れ晴れとしていた。

「そのお若さで妻子がいるのに出家なさるとはなんて薄情な父君なのですか?」

と高岳と同い年の真言僧で空海の実弟でもある真雅しんがが周りが思ってても気を遣って口にしない一言を敢えて言った。

「俺の息子二人は既に在原ありわらの姓を賜り臣籍降下して今後を保証されたし、妻子も納得してくれている。

それにしても何だ?真雅。出家を控えた俺にわざと思い留まらせるようなことを言うなんて…

ははあん、さてはお前、幼馴染の俺が同門の弟子になるのが嫌なんだな?今後いろいろやりにくいと思ってるんだろ?」

にやにやする高岳を前に真雅は
「ま、まさか!私はご家族の気持ちを慮ったまで」と慌てて否定したが、

図星であった。

東大寺の敷地内に建てられた真言院に移動した高岳は儀式の前に丁子ちょうじ(クローブ)入りの湯で身を清め、講堂で待っていた空海阿闍梨の

「さて、俗世と決別して生涯仏弟子として生きるお覚悟はおありですか?」

と厳然とした顔に向かって

「育ての父空海阿闍梨よ、これからはあなたの弟子としてお仕えします」

ときっぱり言い切った。

空海の「それでは」という合図とともに出家得度の儀式が始まり真雅を含めた先輩僧たちの真言の唱和がの中、空海自身の手によって剃髪が行われもとどりを切り落とされ、慣れた手つきでさっ、さっと頭髪がそり落とされる間ずっと高岳は目を閉じて合掌していた。

頭部が軽くなるにつけ高岳は涼しさと共に
平城帝皇子に生まれた身分。廃太子後に東大寺預かりとなり待遇は良かったもののそれとなく監視されている不自由な暮らし。何年も前に決別した筈の母と妻子。

などの俗世のしがらみが一つずつ自身の身から剝がれて体が軽くなっていく不思議な感覚を覚えた。そう、それはまるで重い鋼の鎖から放たれ、籠から飛び立つ翼を得たような…

それが、自由というものだったのかもしれない。

とかなり後になって高岳は述懐した。

得度と剃髪を終えて白衣の上に墨染の衣と柿色の袈裟に身を包んだ高岳に空海は、

「俗名高岳親王、あなたには真如しんにょという法名を授ける。これは在るがまま、という意味や。これから修業おきばりやす」

と今日会って初めて破顔して見せた。

在るがまま。か、さすがは阿闍梨。俺が本当に求めていたものを解っていらっしゃるなあ…

と自分に相応しい名を頂いて感動してぼうっとしたまま東大寺の門をくぐって外に出た。

高岳親王こと僧真如。後の真如法王の、後年大陸の果てに行き着く程に自由を求め続ける彼の人生の旅は、今こうして始まったのである。

後記
平城上皇崩御。やっと本当の自由を得た高岳親王。
































































































































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