有限会社自転車操業11・オーバーフロー

その地区の内科医院横の坂道の下にあるゴミ置き場では不燃ゴミの回収がきっちり朝8時半、という早い時間帯なので前日の4時過ぎ頃から市指定の袋に入った不燃ゴミが3、4つは置かれていた。

時期は二月、夕方六時半。

彼女は小柄な体に紺色のダウンジャケットを羽織り、編み込みの帽子を目深に被って麻のエコバッグに隠し入れていた不燃物のゴミ袋を出し、とっとと捨ててしまおうと屈んだ時にちょうど前方に居た誰かが手にぶら下げていた袋と自分の袋がぶつかり、

がちゃん、と音をたてたので「す、すいません」と反射的に相手に謝った直後、彼女は相手の顔を見て驚いて声を上げた。

「和泉先生!」

「偶然やな、郁美さん」

腰まで届くロングヘアーの髪をゴムで無造作に束ねた和泉先生は上下黒のジャージ姿。和泉先生は自分が持っているゴミ袋の中身を持っている懐中電灯で照らすとそこには…

富子先生の食事会で貰い、その日の内に郁美さん自身の手で金槌を降るって叩き割った白い角皿の破片が入っていた。隅に刻まれた桔梗の模様も確認出来る。

寒い寒い、と和泉先生は大仰に身をすくめて見せて、
「茶でも一杯飲んで行かへん?」と坂道の上にある自宅に郁美さんを誘った。

真木先生の住む二世帯型住宅の一階には両親が住んでいて真木先生はカメラ付きインターホン越しに「友達としばらく二階にいるから」と母親に声を掛けてから外付けの階段を昇り、まるっと使用している二階の「自宅」に郁美さんを通して居間のソファに座らせるとキッチンのガスコンロに笛吹きケトルを置いてお湯を沸かし始める。

「頂き物の野草茶でええ?」と聞くとソファの上で郁美さんはこくりと力なく肯き、「どうしてこれを?」

とテーブルの上に置かれた破片入りのゴミ袋を指差して尋ねた。竹製の茶こしにどくだみ、クコの実、ルイボスティーなど20数種類が入ったお茶をざらざらと入れながら、

「後ろの窓を開いて見ると解る」と郁美さんに言ってみせた。
言われた通りリビングルームのソファの後ろにある二重窓を開けて外を見ると、坂道の下の先程のゴミ捨て場がちょうど見下ろせる。

「最初あんたを見つけたのは偶然やった。昨年末の不燃ゴミ回収の前日にどうやら別の地区からゴミ出しに来ているらしい人物を見て違法ゴミを出す不審人物かと思った」

「…」

「翌朝その人物が出したゴミを見ると、陶器をハンマーか何かでぐしゃぐしゃに叩き割ったような破片。

これを出した人物は噴き出しそうなストレスを抱えている。
と思って月に2回、帽子を被ったランナー風の小柄な女性と出したゴミを観察するようになった。ってこと」

二重窓を閉めてロックを掛け、カーテンを閉めてから郁美さんはソファに戻り、淹れたての野草茶を一口飲んでから

「人のゴミを覗くなんて随分と悪趣味と思いますけど」と硬い声で言うと、

「翌朝袋ごしに中身を見るだけで触ってへんしそのまま業者に回収させとるよ。…ある朝、ゴミ袋の中に見た覚えのある食器の破片で出したのは郁美さん、あんたや。とすぐに解った」

だってその日は富子先生の家で開かれたお食事会の翌日で「これええものだから郁美さん、あんたにあげるね」「いいんですか?こんな上等なもの。大事に使わせていただきます~」と貰って持ち帰ってすぐにぶち割った、ということだ。

女の上っ面恐るべし。
とそれはそれは驚いたけど、

郁美さんはもう破裂寸前や。と判断した上で和泉先生はその袋だけ回収した。今この場で諭すために。

「うちは悪趣味変態呼ばわりされて結構、ストレスが溜まる度にわざわざ物に当たって破壊行為して溜飲を下げる。常軌を逸しているのはどっちなんやろな?」

お茶を飲み終えた郁美さんは手袋をした手でカップの縁を拭ってから、

「でも、いいじゃないですか。自分で買った安物を自分で壊して誰が損します?法に触れちゃいない」

と世間向けのふわふわした笑顔を消して挑みかかる目つきで和泉先生を睨みつける。

それがあんたの素の顔なんやねえ。と思いながら和泉先生は醒め切った目で郁美さんを見ると、

「当たり前のように物に当たる人間は、いつかは当たり前のように下に見ている人間に当たるようになるよ」

とゆっくり分節を区切って標語めいた事を言った。
その言葉を聞いて郁美さんは

今自分がやりたくて辛うじて止めている事を言い当てられたような気がしてぐっ…と左の手で自分の右腕を抑える。

「まだ、璃子ちゃんには何もやってへんよね?」

郁美さんは機械的に頷き、一人娘の璃子に対して
「時々殴りたくて仕方が無くなる。どうしてあんな欠点ばかりの子産んだんだろ?」

と夫の両親と同居し始めてから溜め込んでいた不満を一つずつ泣きながら吐き出した。

相手の話を傾聴しながら和泉先生はあらかじめテーブルの上に用意しておいたお茶碗、

それは富子先生から貰って灰皿代わりにしていたものだが。

を縁から2センチ位の所まで水で満たして、郁美さんが不満を一つ吐き出す度に園芸用の小石を一つずつ落とし、

「経済的に頼りない夫」で一つ。

「何かする度に小言を言う姑」でまた一つ。

「美人でも賢くもない嫁、と侮辱する舅」でどんどん水面かせり上がり、最後に、

「姑に自分の欠点を吹き込まれて母親をバカにするようになった璃子ちゃん」

と小石をぽとん、と落とした瞬間茶碗から水が溢れ出した。

「ねえ郁美さん、あんたが心の中でハンマーを振り下ろしている相手は何人かいるんだろうけど『まだ実行していない』点であんたは辛うじて一般市民や。
同居を解消すれあんたの心は幾分か軽くなるんやないやろか?なあ」

ティッシュで涙と鼻水を拭った郁美さんは

「同居すれば経済的にも家事育児も楽が出来る、と思った自分がバカでした。人間一緒に暮らせば上っ面は剥がれるんですよね…
自分は我慢出来る、と思ってたんですが」

「人間なんてみんな大して強くないで」

和泉先生が箸で茶碗の中の小石を一つずつつまみ上げて出してしまうと中の水位は下がり、こぼれた分を引いて縁から3センチ位になった。

「…解りました、夫がどう言おうが職場復帰してでも実家に帰ってでも今住んでる所から、出ます」

と郁美さんは意を決して顔を上げた。

彼女は上っ面のふわふわ笑いよりもその表情が似合う、と和泉先生は思った。

「いじめ、罵倒、攻撃、そして暴力。世の中で一番怖いのは常軌を逸した人間や。あんた、こうなる前に踏みとどまれてよかったな」

と和泉先生は今朝の新聞を持ってきて事件欄の
華道講師殺人事件で家政婦を殺人容疑で逮捕。の記事を広げて見せた。

容疑者で東村家家政婦の兼山千夜子はホステスをやっていた頃の富子の職場仲間だった。

が、10年前ある事情で職に付く事がなかなか難しく困っていた時にデパートの和服売り場で何枚も着物を注文していた富子に「加納スミ子さん?」と声を掛けた事で千夜子は職を得た。

お世話してくれる内縁の夫と経済的余裕を得たものの…

本名と過去を知られる事が富子の弱みであり、
盗癖を持ち過去に職場で同僚のブランド品を盗み、逮捕された前科が千夜子の弱みであった。

互いの弱みを握りあった歪な雇用関係は実に10余年に及び、千夜子が富子の私物をこっそり盗んで質に売っていた事が発覚したあの日…

「ポンカン、ああ今の時期は美味しいねぇ~ほな待ってます」

と受話器を置いて振り返った富子は般若の形相をしていた。

「よくも雇ってやった恩を仇で返したな…この10歳経っても這い上がれない屑が」

這い上がれない屑、やて?
あんたは男に囲われて気取って暮らしてるだけのただの妾やないの。

屑、と言われてこの瞬間まで10余年溜めていた嫉妬と憎悪が心の蓋を破って溢れ、

「掛かってきた電話を取ろうと富子が後ろを向いた隙に予め箪笥の奥から取り出して後ろ手に隠し持っていた帯で首を締めました。
お客が来る事を知っていたので5分かそれ以上強く絞めたかと」

と取調室で自供する千夜子に山根刑事は2つの写真を示して見せ、

「あなたが加納スミ子さんの首を絞めたのはこのどちらですか?」

と尋ねると千夜子はえ…?と食い入るように

セーラー服用の黒いスカーフと黒いストッキングの写真を見つめ、

「いいえ、どちらでもありません。だってうちが絞めたのはたまたま箪笥にあった紅い志古貴《しごき》です」

と答えると山根刑事は調書を取っている刑事と頷き合い、

「これで東村富子さんこと加納スミ子さんを死に至らしめたのはあなたではない事が確認できました」

と千夜子に告げると…

「それどういう事ですのん!?」

とパニックになった千夜子が髪を掻きむしって叫び、刑事たちに制止された時、

「ちくしょう、もっと強く絞めて仕留めれば良かった…」

という呟きを聞いた山根刑事は

「事件には慣れてるつもりやけど女同士の怨恨は相変わらず怖いわ」

と後で敦に語った。

「じゃあ私が富子さんを見つけた時、中に居たのは千夜子さんじゃなく後でストッキングを巻き付けた真犯人だったんですね?」

今現在、九条税理士事務所の上の階の部屋に「避難」している双葉の質問に敦は

「その通り」と窓辺の小雪を見ながら気取って頷いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?