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元ちゃんと王貞治

日曜日の朝だった。
テレビで『ミユキ野球教室』を見ていた。
スタジオに読売ジャイアンツのユニフォームを着た王貞治が現れ、しばらく話をした後、おもむろにバットを握って右足を上げ、一本足打法の構えをしたかと思うと、そのままの姿勢でジッと固まった。
「八井田君、ちょっと王選手を押してみて」と、越智アナウンサーが言った。すると、テレビ画面に見覚えのある浅黒い顔が現れた。

元ちゃんだった。

元ちゃんは言われたとおりに、王選手の体を横から押した。上げている右足の側ではなく、床についている左足の側から押した。
「動きません」と短く答えて、元ちゃんは画面の横に消えて行った。ほんの数秒か長くても十数秒の間だったけれども、私の身近な人間が、初めてテレビに映って喋った記念的な瞬間である。

番組としては、王選手の一本足打法というものが、ちょっと押されたくらいではびくともしないほどに鍛え抜かれ、盤石なものであることを、示したかったのだろう。しかし、私にはそんなことはどうでも良かった。元ちゃんが全国ネットのテレビに突然登場し、それを偶然自分が目撃したことこそが、私にとって一大事件だったのである。

 元ちゃんは私の母の一番下の弟である。叔父さんだから、普通なら「元おじさん」とか「元おっちゃん」と呼ばないといけないけれども、兄も私も「元ちゃん」と呼んでいた。
 兄とは五歳くらいしか年が離れていないこともあって、自然と「元ちゃん」と呼んでいた。小学生の頃、夏休みに高知に帰る度に、高校生の元ちゃんに遊んでもらっていた。元ちゃんが怒ったところを一度もみたことがない。確か、王選手とは同い年のはずだ。顔もどこか似ていた。

その元ちゃんが、東京の大学に入り、日本テレビに就職し、ある日突然テレビに現れて、一本足で構える王選手を押して「動きません」と言ったのだ。
 1964年、東京オリンピックがあった年だ。私は中学2年になっていた。

元ちゃんが押しても動きませんと言った王貞治の一本足打法

(詩集『月のピラミッド』第3章「日真名氏飛び出す」より。)


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