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つたやん

「きのうは長嶋17号ぜよ。台風14号をとっくに追い抜いてホームラン王。まっこと、ハリケーン長嶋ぜよ」と大声で言いながら、つたやんが八井田家の土間に入ってきた。つたやんは上がりかまちに腰掛け、木でできたいつもの岡持ちの蓋を開けて、中から茶色い薄皮饅頭と、赤い耳のついた兎のかたちをした和菓子を私にくれた。昭和33年8月7日。私は小学2年生だった。

その頃、私は夏休みになると母に連れられて、兄と一緒に、高知県香美郡土佐山田町にある母の実家に帰ってきていた。

母の実家は八井田医院といって、当時は土佐山田では有名な産婦人科の病院であった。私たちの祖父である八井田寛は、八井田医院の医院長であり土佐山田の名士であった。寛は昭和38年に76歳で死んだ。つい最近まで、八井田医院の近くにある県立山田高校の正門脇で、眼鏡をかけた寛の銅像が、寛の功績を顕彰する碑文の上で目を凝らしていた。寛は私財を投じて山田高校の前身である県立山田高等女学校を創設したのだった。前を通る国道には八井田医院前というバス停留所もあった。私は訪れたことはないが、八井田神社という神社まであったそうだ。

兄も私もその祖父の手によって八井田医院で母の胎内から取り上げられたのである。

病院の前はロータリーになっていた。その中心には、植木や石が配置された庭のようなものが造られていた。八井田家の住居は渡り廊下で病院とつながっていた。つたやんが和菓子を持って八井田家を訪れたのは、いつもその住居の方であった。

つたやんの「つた」が苗字なのか名前なのか、漢字でどう書くのか、私はその時も知らなかったし、今も知らない。つたやんのことで私がよく憶えているのは、子供心にも、つたやんは大人にしては少し言う事が子供っぽいように思えたことと、野球と長嶋茂雄のことばかり大きな声で嬉しそうに喋っていたことである。とにかく、声が大きかったのである。

ひとしきり長嶋の話をしたあと、岡持ちを提げて少しうつむき加減で黙って土間から出て行くのだった。

それからもうひとつ、私がつたやんのことでよく憶えていることがある。それは、つたやんはいつも大きな黒い自転車に乗って、いろんな和菓子の入った木の岡持ちを提げていたことである。どこかの和菓子屋の店員だったのだろうか。

つたやんは、とくに私を可愛がったり、よく面倒をみてくれたりした訳ではなかったけれど、私は毎日でもいいから、つたやんに来て欲しかった。その後、私も、毎年野球シーズンが夏場にさしかかると、長嶋のホームラン数と台風の数を比べては、一喜一憂したりするようになった。ひょっとしたら、つたやんの影響かも知れない。いや、きっとそうだ。

小学校の高学年になっても、毎年、夏休みには土佐山田に遊びに帰っていた。冬休みに帰ったこともあった。しかし、いつの頃からか、つたやんは八井田家に姿を見せなくなった。あのうつむき加減で土間を出て行ったきり、私の目の前から消えてしまったのだ。中学1年の夏休みに、生まれて初めて飛行機に乗って土佐山田に帰った時も、つたやんはいなかった。

私のつたやん。私も土佐山田にはもう何十年も帰っていない。

 (詩集『フンボルトペンギンの決意』第3章「記憶の保存場所」より)

( つぶやき)
私は今は大谷翔平の活躍に一喜一憂している。
長嶋茂雄にも大谷翔平にも、
そのプレーには人の心を揺さぶるものが確かにある。
それは数字には残らないかも知れないけれども、
長い間語り継がれてゆくに違いない。

もうひとつ、つぶやいてみる。

八井田医院の建物はリノベーションされて、
今は「ヒビヤレコーズ」というレストランに生まれ変わっている。
JR土讃線「土佐山田駅」を降りてすぐ国道195号線沿いにある。
心温まるお店と聞いている。
高知に行かれたならば、ぜひ一度訪ねてみて頂きたい。

(注)
ヘッダー写真は今は「ヒビヤレコーズ」となった八井田医院の建物。


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