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主体を形成する繋がり

8月になり、多拠点生活を始めて約2か月。
色々トラブルに巻き込まれたりもしたこともあって、もともとの予定通りにいかなかった部分もあり、今のところ思い通りにいっていないのが正直なところだ。しかし、いくつかの地域に滞在した中で感じたのは、やはり滞在先や地域の人たちとの「つながり」である。短期滞在した場所で一日だけ会ってお話を聞いただけという方もいれば、1か月ほど滞在して色々お手伝いさせてもらうくらい深い関係になった方もいる。そんな中で、自分は色んな地域にとっての関係人口になりうるのではないかと感じていた。そんな時、『関係人口の社会学』という本が面白いという旨の書き込みをSNSで発見し、実際に購入して読んでみた。

主体を形成する社会関係資本

本書においては、関係人口という言葉を場所、時間、態度の3つの観点から分析し「特定の地域に継続的に関心を持ち、関わるよそ者」と定義づけられていた。個人的に特に興味深かったのは、態度への注目だ。本書においては関係人口を地域再生の主体の1つとして捉えている。それ故に、観光や交流といった形で「関心」をもっているだけでも、返礼品目当てのふるさと納税のような「関与」しているだけでもない。意識(=関心)と行動(=関与)の両方が必要だと。

そして本書では更なる分析として、いかにして関係人口とされる人々が地域再生の主体になりうるかという点について、社会関係資本に注目していた。社会関係資本とは、信頼や互酬性の規範に基づくつながりのことである。つまり、人とのつながりが関係人口とされる人々の主体性につながるのではないかと。

このような「つながり」に関する議論になると度々出てくるのが、強いつながりと弱いつながりという議論である。強いつながりは、集団としての成果はあげやすい一方で、同調圧力をうみ個人個人の個性が脅かされる危険性がある。逆に弱いつながりは、個性は尊重されてもここぞ場面では力を発揮することができない。強いつながり、弱いつながりの良し悪しは裏表の関係にあり、そのどちらがいいのかと言われると悩ましい。しかし僕は、このような強い/弱いというような対立構造では語れないつながりもあるのではないかと思う。

弱いつながりも許容できる信頼関係

能登にいた6月のある週末、地元若手農家の方々が共同で行っているジャガイモ畑の収穫を地域のみんなでやろうということになった。僕にとってはこれだけ多くの人数で農作業を行うのは初めての経験だったのでとても楽しみだった一方で、もしこれが日常的にあると「週末は疲れているからゆっくりしたいけど断りにくい・・・」なんてこともあるのではないかと勝手に想像してしまった。これがまさに集団としての力は成果はあげることができる一方で個性を失わせる可能性もある強いつながりであると。楽しみ半分、これからのことを考えた時のこわさも半分。地域のみなさんのことは大好きなのだが、身構えてしまっている自分もいた。

一日お手伝いさせてもらった中で、農家の方々や地域の方とたくさんお話をさせてもらった。これまでも個人的に何度かお手伝いさせてもらっていたが、これだけたくさんの方と密に話をすることができたのは初めてだったので、勝手に満足感を覚えていた。そして作業が終わった後、特に意識したわけでもないが自然と「またお手伝いに行かせてください」と言っている自分がいた。そして、一見調子がよさそうに見えるこの言葉に対して、一週間後に僕が一旦能登を離れる予定だったことを知っていた農家さんが「頑張ってこい。そしてまた待ってるね。」と言ってくださった。初め、強いつながりになり同調圧力が生まれることを恐れていたが、終わった後こんな会話をしているとは想像もつかなかった。

正直なところ、「またお手伝いさせてください」なんて言葉をこれまで農作業が終わった後に発したことは一度もない。また、この言葉はただきつい農作業が終わり、解放感、一種のノリのように出てきたような言葉ではなく、また社交辞令で出た言葉でもない感覚が自分の中ではあった。おそらく初めて、ただ誘われたからお手伝いに行くのではなく主体的に「この地域、この人たちに貢献したい」と思えた瞬間だったように思う。そして僕がこう思えた理由は、農家さんからの「頑張ってこい。そしてまた待ってるね。」という言葉に詰まっているように思う。

「頑張ってこい。」というのは、僕個人の考え方やライフスタイルを尊重してくださった上での言葉だ。そして「また待ってるね」という言葉は、僕の価値観に尊重してくれつつも必要としてくれていることを示す言葉のように思う。これは、いざという時には結束できる強いつながりでもあり、物理的に離れていて弱いつながりになった時があっても、それを許容することができかつ途切れることはない、強くもあり弱くもあるつながりであるように思う。その日だけではなくこれまでもお手伝いしてきた中で、そのような弱いつながりも許容できる信頼関係を築けていると思えたからこそ、僕は同調圧力の恐れなどなく「またお手伝いに行かせてください」と心の底から言え、主体として積極的に関与していきたいと思えたのだ。今振り返ればまさに、社会関係資本(=つながり)が主体性につながった瞬間だったように思う。

つながりの温度と流動性

こちらの記事では、長野県千曲市のワーケーションの事例を解説する中で、その特徴の1つとして強すぎもしない弱すぎもしないつながりを、「単なるつながりを超えた身体性のある『ぬくもりのあるつながり』」と表現していた。これは、つながりは「強度」ではなく「温度」であると言っているように思う。つながりの強度は、関係人口の定義の3つの観点に照らし合わせると、(もちろんそれだけではないが)「場所」や「時間」が大きく影響するように思う。同じ場所にずっと一緒にいて、共に過ごす時間が長くなればなるほど自然とつながりは強くなっていくだろう。しかし、それだけでは強いつながりの負の側面も生み出しかねない。そう考えた時に重要になってくるのが、つながりの「温度」であり、これは関係人口の3つの観点の「態度」が影響するように思う。地域の外の人、そして中の人が「この地域に貢献したい」「この人に力を貸してもらいたい」という態度、純粋な思いをそれぞれもっていさえすれば、例え物理的な距離が離れていて共に過ごす時間は短かったとしても、それを許容できるように思う。それこそが、ぬくもりのあるつながりだと。

このつながりの「温度」という考え方に加え、僕がもう1つ重要だと思うのはつながりの「流動性」だ。1対1のつながりにおいて、これから死ぬまでずっと強い(もしくは弱い)つながりだという固定的なものではなく、時と場合、それぞれの都合によって弱いつながりの時もあるし強いつながりの時もあるということだ。これは、スマホやSNS、そしてzoomのようなオンラインミーティングツールがない時代を考えれば不安なことでもあると思う。その場にいなかったら、その人が何をしているのかもわからないし、コミュニケーションをとりたくてもとれない。しかし、今は離れていても僕らはつながることができる。だからこそ、離れること、一時的に弱いつながりになることを恐れる必要はないのだ。そしてまた同じ場所に入れる時に、強い繋がりとなり結束すればいい。そんな流動性のあるつながりこそが、地域外のよそ者が主体的に地域に関与しようと思える大きな要因になりうのではないかと思う。

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