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思い出はチロル味

最近の高校生の登校事情について考えさせられる。

反抗期真っただ中の三男坊が高校一年生になり、ぼくが通っていた高校より少し距離の近い高校に通うことになった。登校は電車通学だ。

ぼくの時代は、ほとんどの人が自転車通学だった(高校の近くの子は別として)。ぼくの通っていた高校は通学距離が15キロだったので、家を40分前に出ないと朝礼に間に合わなかった。それでもそれが当たり前だと思っていた。風が吹こうが、雨が降ろうが、雪が降ろうが、台風がこようが(この場合は学校がお休みになっていた気がする)、基本はどんなときも自転車で学校へ行っていた。

だからというわけではないが、三男坊も自転車で行くものとばかり思っていた。ところが、今の時代はほとんどの子供が電車(+自転車)で通学するらしい。時代は確実に変わったというわけか。

それだけならまだしも、車で送り迎えする親や祖父母もいるという。いわれてみれば、近所の高校生の女の子は約4キロの道のりをお父さんの送り迎えで通学している。いつごろからそうなってしまったのだろう。

風が強かったり、雨が降ったり、雪が降ったりすると車で通学する子供が多いという。風が強くても、雨が降っても、雪が降っても、自転車をこぎ続けた僕らの時代はずいぶんと遠いものになってしまったようだ。

雪が降るで思い出したのだけど、ぼくが中学生の時に、部活の帰りに吹雪にあったことがあった。

吹雪がくるということで、少し早めに部活を終えて帰路に就いた気がする。その吹雪はこれまでぼくらが経験(今でもそうそうにない)したことないような吹雪だった。あたりは一瞬で真っ白になり、合羽を着て自転車を走らせていたぼくらはすぐに(文字通りに)雪だるまになってしまった。

今だったら、絶対車で迎えをお願いしたいところだが、そのころぼくらにそういう選択肢はなかった。荒れ狂う吹雪の中、ぼくらはただひたすらにペダルをこいだ。

中学は約4キロの道のりだったが、その日はほんとうに家に帰れるだろうか不安になるくらいだった。次第に目を開けているのも苦しくなり、まつ毛につららができてきた(ほんとうに)。

そのとき友人A(その日は友人3人と一緒に帰っていた)が見かねて、途中で休憩しようと言いだした。そこで、途中にあるS商店の軒先で休憩しようということになった。吹雪は全くやむ気配はなかった。それどころかますます荒れ狂っているようだった。

S商店につくと、まだお店はやっていた。するとAが何か暖かいものを買おうといいだした。でも残念ながら(ぼくらはお金を学校に持ってきてはいけなかったので)誰もお金を持っていなかった。Aは「俺が少しだけ持っているから、おごるよ」といい、財布の中を覗くと100円だけ入っていた。

100円では何も買えないなとみんなで笑ったが、Aは「チロルチョコなら買えるぞ」といった。そこでAはぼくら(3人)にチロルチョコを1個ずつ買ってくれた。

実を言うと、ぼくはあまりチョコが好きではない。チョコがなくっても生きていけるほど、あまりチョコを食べない。それでもあの時食べたチロルチョコは、口に入れた瞬間、甘い香りとなんともいえない暖かさが口いっぱいに広がった。吹雪のせいで、身も心も冷え切っていたのかもしれない。そのときのチロルチョコは、ほんとうにこころに残るほどにありがたいものだった。

外は吹雪だったけど、ぼくらはなんとも暖かい気持ちで家路につくことができた。

Aたちとはその後も、仲良くたまに連絡を取り合う仲だ・・・といいたいところだが、残念ながら、みな高校もばらばらになり、あの時感じた4人の結束も見事に霧のように離散し、いまでは年賀状のやり取りもない。

しかし、思い出は思い出だ。今でもあの吹雪の中で味わったチロルチョコを思うとき、口に甘さと香りがしっかりと確かに広がるのだ。あれからチロルチョコを食べたことは数えるくらいしかないというのに。


ゴゴゴゴゴッ

(ん、何、なんの音?)

ヒトコトヌシ: わしは一言主命である
ぼく: はぁ・・・
ヒトコトヌシ: お前、出雲神話について毎日語るといっていたが、このままでは何も語らないまま、お前のつまらない思い出話で終わってしまうぞ
ぼく: はっ!忘れてた(心の声)ち、ちゃんと覚えています。今すぐ書こうとしていたところでした(汗)

出雲神話にイザナギイザナミの国生みの話が出てくる。次々とこの国を生んでいった二人だったが、初めからうまくいったわけではない。

はじめに国生みの段取りが悪かったのか、最初に産んだ子供は蛭子だったので、葦の船に乗せて流してしまった。次に生んだ子も失敗で淡島(泡のような島)となった。

思い出は個人的なものだ。それを語ったところで誰を暖めることもできない。おもえば、イザナギイザナミの生んだ淡島のようなものかもしれない。

思い出は儚いしゃぼん玉のように誰に届くこともなく消えていく。

しかし、そんな個人的な思い出も、本人にとっては特別なものだ。そしてその思い出はいつでも思いだせて、懐かしくこころを暖めてくれる。そういう思い出は歳をとるほどに増えてきて、こころのよすがになる。

ぼくのささやかな思い出で、みなさんのこころが暖まることはないのだけど、せめてみなさんが自分の思い出を振り返って今日の残りの時間を過ごしていただけたら幸いだ。


ぼく: これでどうでしょうか?
ヒトコトヌシ: まぁ、下手なりになんとかまとまったな
ぼく: (いったいこのひとはなんなんだ!)
ヒトコトヌシ: だが、ひとことだけ言わせていただく!
ぼく: はい?
ヒトコトヌシ: これからただの思い出エッセイもイザナギイザナミの国生み失敗話につなげればいいやと思っているかもしれないが、それは一回きりな。今後は同じ手法を繰り返してはならんぞ!
ぼく: キビチィー!!


こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。

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