フットボールがわたしたちから何を期待しているのか "was das Leben von uns erwartet"

タイトルで読者をスクリーニングするというコンセプトでやっております。もの好きの皆さん、毎度ありがとうございます。


ご存知かもしれませんが、自分は今 関東リーグという場所で、いわゆる「社会人サッカー」をやっています。Jリーグ的な言い方をすれば J6(つまり6番目のディヴィジョン)という位置付けになります。

5/4、多摩市・南豊ヶ丘フィールドで、そのリーグ戦の第4節がありました。

Criacao Shinjuku は、この難しい試合に勝利することができたわけですが、その裏側には ほんの数分間の名スピーチがありました。


「問うのではなく、 問われている」

試合の前々日、いつも通り MTGで映像を見ていると、監督がふいに立ち上がり、ゆっくりと話し始めました。

僕の人生の三割強は、彼によって組成されたものです。なので、もうだいたいカンで分かるのですが、このときも「ああ、また人生に影響を及ぼされる…」という予感、畏怖、半ば諦めの感情に包まれていました。

「ハードな試合になってくると、相手チームに『ファールじゃないか』と、審判に『ちゃんと見ているか』と『問う』ことをしたくなるだろう。しかしCriacao Shinjuku の選手は、絶対に問うことをしてはいけない。そういうことが起きたときに、自分たちは『問われている』んだ。憤りや不安を感じたときに、Criacaoらしく どうあるべきか、どうありたいかを問われているんだ。」

続けて、

「自分たちの想定の範囲内で物事が進むときに、そういう体験は生じない。だから人間も鍛えられない。しかし、次の試合では絶え間なく 問われ続けるだろう。その問いから逃げたくもなるだろう。だけど、その問いに向き合うことをやめてはいけないし、試合にも必ず勝つ。」

というような、短い話でした。

チームの空気が変わった感覚がありました。

その後は「問うな!」が バズワード化(?)して、練習中、グラウンドで飛び交うことになります。試合当日も、この言葉は自分の中で大きな存在感を放っていました。


夜と霧

よく成さんと話をしていて出てくるのは、ヴィクトール・フランクルの思想です。以下の部分が有名なパラグラフです。

「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを一八十度方向転換す
ることだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているのかが 問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。 哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によっ て、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく応える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。」

ナチス政権下の絶望の中で、人生<生きること>に期待するのではなく、むしろ 人生<生きること>に期待されている、自分はそういう存在なのだ、という気づきが 彼のした偉大なリフレーミングです。

タイトルの "was das Leben von uns erwartet" は原文の「生きることがわたしたちからなにを期待しているのか」の部分です(多分)。


フットボールがわたしたちから何を期待しているのか

フットボールは たくさんのことを与えてくれます。それは往々にして受動的な姿勢、つまり「フットボールさえしていれば、何かを得られるんだろう?」というような期待が生じます。しかし、それは勘違いです。期待するのではなく、期待されているのです。

思い通りにいかないとき、異議を申し立てるように、自分たちはフットボールに対して問う側に周りがちです。しかしそうではなく、自分たちはフットボールから問われている側に立っているのです。


この日は想定を大きく超える事態が発生して、心をえぐるような問いかけに晒され続けた90分でした。どう考え、どう動くべきだったのか、今でも答えがわかりません。しかし、問われる側に立っている限り、自分たちにはフットボールへの応答責任 Verantwortung を抱えています。

これは仮説ですが、フットボールの意味はこの中にあります。フットボールをするという選択をしたおかげで 身にふりかかるこれらの不条理に、自分たちは常に問われています。「黙って我慢しろ」ではなく、個人の内側に潜り、組織の理念を鑑み、自分なりに応答していく。前例も正解もないものに対して 態度を決断していく。そういう、生命力を求められる営みの中にこそ、自己の拡大、平たく言えば成長の可能性があるのではないかと思ったりもします。


繰り返しになりますが、何も答えは出せていません。唯一、はっきりしているのは、自分たちが今も問われているということだけです。




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最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

僕も好きです。
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井筒 陸也

敗北のスポーツ学

スポーツとその周辺について
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コメント2件

僕の人生観は常に「なぜ?」と自分に「問う」ことでした。
哲学的なところは最近少し自分の生活レベルにも落とし込めるかなと、興味を持っていたところで、「問われている」の考え方は新鮮です。考えてみます。
「問うのではなく、 問われている」
刺さりました。
「人生に影響及ぼされ」そうな予感です。
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