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突然訪れた 母の死 に際する今の気持ち

母の死について全く受け止めきれておらず、首より下の感覚がほとんどありません。(ふわふわ浮いているような)
何も手に付かないので、今の自分が気を紛らわせつつ事実を受け止められるように、そしていつかの自分のために書いています。文章もうまくまとめられていませんが、それも含めて今の状態だと思います。

2022年1月7日午前9時6分、母は57歳で亡くなりました。死因は現時点で不明です。6年前に乳がん(トリプルネガティブ)を患い、手術と抗がん剤治療を経て寛解。定期検診もパスし続けて昨年4月の検診でも問題なく、5年のラインを超えて逃げ切ったと皆で喜んでいました。

再度ガンとの闘い

一方で2月から腰が痛いと言っており、時間が経つにつれて咳が止まらなくなってきました。ガンかもしれないから確認した方が良いと話をしていましたが、町医者にそれはないだろうと言われて他の原因について様々な検査をしても理由が分からないまま月日は流れていきました。
結局、ガンの骨転移だと判明したのは9月はじめのことです。その頃には脳を含む全身に転移しており、一生ガンと共生していかなくてはならないとのことでした。

10月から始まった抗がん剤と放射線治療が大きく効果を出し、2kg太るほど旺盛な食欲、壁を伝わない移動や簡単な家事ができるまで回復を見せており、全員がしばらく安心した日々を過ごせるものだと確信していました。

突然すぎるその時

2022年1月4日僕が旅行から家に帰ると、母は体調を崩していました。食欲が湧かず、普段なら手伝おうとする荷物の片付けも一人でやってほしいと言って早めに眠りにつきました。翌日もほとんど何も食べられず昼からずっと寝続けていました。ただ、年明けに体調が悪くなる可能性を主治医から指摘されていたこともあり、さほど気にしてはいませんでした。

6日の15時35分、僕が歯医者に向かうために診察券の場所を聞きに行くと、母は自ら移動しようとするもののほとんど動けず、あ…う…のような声しか出せなくなっていました。救急車が到着する数分前までベッドで自分と目線を合わせていましたが、到着した段階で心肺停止になっており、病院に運び込まれました。

処置をしてもらい心臓は動くようになったものの、20時頃主治医の先生から、瞳孔が開いており、脳が停止していることから今日の夜が山場で朝まで保つかどうかを伝えられました。運悪く父は一時的に病院から帰宅しており看取る瞬間に間に合わず、僕と2人きりの時に息を引き取りました。

半開きの目と穏やかな顔からは今にも「朝早いやん、おはよう」といつも通りの朝が始まりそうな様子でした。


↓ここからは母へのメッセージ。後悔もいくつかあるけど、ほとんど無く、いくつかの決断については心から自分を褒めてあげたいです。

母への想い

もしかしたら声は届いていなかったかもしれないけど、最後にかけた言葉「ようがんばったなぁ」「貴方の息子で本当に幸せでした」が全てです。

超がつくほど親バカなあなたは、いつも主語が「私は」ではなく、「じんたは」でした。自分に決してお金を使おうとせず、僕が幸せでいられるならなんでもしてあげようとするし、生活が楽になるように、を考え僕の決断も最終的に全て支持してくれました。
だからか息子である僕にとっては、全ての思い出が1つ残らず嫌な思い出がありません。これはすごいことだと思います、何回転生してもあなたの子供として生まれたいと心の底から思います

話聞いてても、病気になる前も相当なストレスと波乱万丈な人生で、おばあちゃんが亡くなった4年前からはさらに大変だったと思うけど、支えてあげられてたかな?ずっとしんどい人生やったと思うけど、今までがんばってきたから、最期だけはほぼ痛みなく、顔もふっくらとした綺麗な顔のまま終われたんかなと思います。自分ではシワ増えたって言ってたけど、一つもシワないし、お友達がしてくれたお化粧もすごく綺麗やからきっと満足する出来やと思う。

ただ、意識失ってから17時間も心臓は頑張ってたり、葬儀の日程がなかなか抑えられへんかったのを見ても、まだまだ一緒に歩きたかったんかな。「え?これで私の人生終わり?悔しいなぁ」って言いそうやもん。

ICUでいっぱい点滴やチューブを入れられてる姿、冷たい手や顔、安らかだけど変わることのない表情、黄色く変色し出してた手足、霊安室から運び出される時の重力に一切逆らうことのないぐったりとした頭、車の中で布がついているのにはっきりと映る顔の輪郭、連絡した人からのお悔やみの返信、あなたに会いに来たお友達の悲しそうな顔や会話。あなたがこの世界にいないことを確認するかのような一つ一つ、23歳には荷が重すぎるよ。

おばあちゃんにも「じんた残してこんな早く来たらあかんであんた」ってたっぷり怒られてください。

後悔

①もっと2人で写真撮っておけばよかったね。5日の日も取材用の写真撮ってーってお願いしてたけど、コンタクト入れたり髪整えるのが面倒だから別に明日とかでいいやって先延ばしにしちゃった。

②4日に旅行から帰ってきたとき新大阪で赤福買ってきてほしいって言ってたよね。でも売り切れてて買えなくて、6日の歯医者の後取り置きしとくからって予約してくれてたのに食べさせてあげられなかった、ごめん。

③途中2ヶ月くらいわがまま言って友達とシェアハウスしたのも、時期変えてもらうように頼んでもよかったかもしれないね。

④最後かも知れないって言ってた僕への誕生日プレゼント、結局買ってもらえなかったね。

自分を褒めてあげたいこと

①仕事がリモートだったこともあり昨年2月の大学卒業のタイミングで、東京から実家に戻る決断をして1年間一緒に過ごせたことはファインプレーじゃないかな?4年前におばあちゃんを看取れなかったこともあったし、あなたと過ごせる時間がいつまでもあるとも思ってなかったから一緒に暮らせるうちに暮らしておいて本当によかった。(こんな早いともこんな突然だとも思ってなかったけど)

②ほぼ初めて、誕生日プレゼントをあげられて良かった。いつも「私の幸せはあなたが幸せになることだから何もいらない」って言ってたけど、前から新しいの買おうか悩んでるって言ってたから友達がクラファンしていたショーツを買いました。12月に届いたから誕生日より2ヶ月遅れちゃったし、結局1ヶ月も履けなかったけどすごく嬉しそうだったね。病院の人に頼んで、お気に入りのスカートの下に履かせてもらったよ。

③9月はほぼ毎日検査とか通院しないと行けなかったから、5時起きで10時まで仕事行って、帰ってきたらお昼作って病院行って、夕食作ってって生活してたね。
身体はボロボロになったけど、あなたのためなら…ってとても幸せな1ヶ月だったよ。病院で車椅子押しながら話したり、友達と病院で会った時に楽しそうに僕を紹介したり、しんどいはずなのに作った料理を少しでも美味しそうに食べてくれてたのはかけがえのない時間だったね。

この生活を実現するために新規事業の事業責任者から日中MTGしなくても大丈夫なポジションに移させてもらったんだ。キャリアも諦めて経営からも降りようと覚悟して会社と話したから、心配もかけたけど良い決断だったなと思ってる。

④病院代や家政婦さんとかお金渡すからこの分は好きに使ってって渡した分をちょっと遠慮しつつも必要な分ちゃんと使ってくれて嬉しかった。

⑤主治医の先生から死因が分からないので解剖したいと言われた時に、綺麗なままを好むあなただけど、ガン患者が一人でも助かる未来の方が好みそうだなと思って体の解剖をお願いしたよ。(頭部は流石に気にしそうだからやめたけど)だから送り出すときもみんなにも気付かれないと思う。

⑥LINEを開いて、生前仲良くしてくれていた人にちゃんと報告したよ。みんなすぐに連絡をくれて、会いにきてくれるって。人柄だね。あとみんな口を揃えて「いつも息子さんの話のことばっかり話してて」って言ってるよ。

⑦一昨年の夏、鬱になったときも人を全く頼れなくてすごいあなたに心配かけたけど、今回は仲良い友達とかあなたのお友達や親戚にヘルプを言えるようになったよ。意外と優しく寄り添ってくれる人もいるもんだね、一生大切にしたいと思う。


全然親孝行は出来なかったけど、後悔よりやってよかったなぁってことが多いから最低限は出来たんじゃないかな。

23年間あなたがぼくに注いでくれた愛情を少しでも返すことはできましたか…?正直自信はありません。

これから

正直、現状を全く受け止められていません。「なんかご飯食べよっか?」とか「お風呂はる?」とかひょっこり声かけてくるんじゃないかと期待してしまいます。
みんなに頼らせてもらってはいますが、寝ても寝ても疲れが取れなかったり、食欲もわかず、ふとしたタイミングで涙が溢れてきて、心がぐちゃぐちゃになりそうです。人知れず苦労していたことを知り、母に会いにきたいという人たちとお話しをするうちに思っていた以上に母は偉大だったんだなと感じています。

母を送り出したら、遺品を整理したり僕が生まれる前の母について話を聞いたりしながらどこかに置いてあるはずのエンディングノートをゆっくり探し、今後どの場所でどう生きるかを考えたいと思います。

きっと、僕が幸せで居続けることが母にとって一番の幸せなのではないか。そうであるなら、親孝行をする時間はまだまだ残されています。もう少しだけ母と過ごした23年間に想いを馳せて、僕が生き続ける間、ゆっくり時間をかけて親孝行をしていこうかな。そう思っています。


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