見出し画像

母音の話 1

母音図

言語学では色々な形の母音図が使われるが、とりあえず以下のものを基本として良いとおもう。

狭広と前後を3段階に分け、それぞれに円唇と非円唇の記号を用意する。

慣れないと少しわかりにくいかもしれないが、この母音図で使われている記号は言語学の伝統的な記号の使い方に従っていて、次のように考えると覚えやすい。(それぞれの記号は伝統的な使い方のうちの一つを選んでいるが、この母音図と全く同じものが伝統的に使われているという意味ではない。)

まず、以下の図を考える。

母音の前後は3段階ではなく2段階に分けている。このように2段階に分ける場合は真ん中の列も後ろに入るものとみなしてしまうことが多い。

また、この図には円唇性の別が用意されていないが、前母音 i, e, æ は非円唇であり、後ろ母音 u, o, ɔ は円唇であると考える。

この図を基本に円唇の前母音や非円唇の後ろ母音を表したい場合、次の図を使う。

母音の上にトレマというダイアクリティカルマークをつけて、ü, ö, ɔ̈, ï, ë, æ̈ という記号を作る。これは母音の円唇性を変えることなく、前後を入れ替える記号である。例えば、u は円唇の後ろ母音なので、それにトレマをつけた ü は、円唇の前母音を表す。

これで前後の両方について円唇母音と非円唇母音を表すことができるようになった。

さらに、言語によっては真ん中母音と後ろ母音を区別する必要があるかもしれないので、真ん中母音を表すために次の図を使う。

ここでもダイアクリティカルマークが使われている。ストロークと呼ばれる記号で、i, u, o, ɔ に組み合わせて、ɨ, ʉ, ɵ, ɔ̵ という記号を作っている。この記号は、円唇性を変えることなく、母音を真ん中母音に変える。

同じように e, æ にストロークを組み合わせても良さそうだが、見た目が最悪なので誰もやりたくないとおもう。どちらも元々横線が入っている字形のため、環境によっては、ストロークの有無が見分けられないかもしれない。その代わり、お馴染みの記号である ə, a が余っているので、これをそれぞれ中段と下段の非円唇真ん中母音に割り当てて、冒頭の表が完成する。以下は再掲。

なお、IPA では一階建ての a と二階建ての a を区別することになっているが、かなりやめてほしい。この母音図ではその区別をする必要はない。

母音の音響と調音

母音の前後は F2 に、狭広は F1 に対応していて、F1 は母音が狭いほど低く、広いほど高い。また、F2 は母音が後ろ寄りになるほど低く、前寄りになるほど高い。ただし、F2 は円唇性によっても変わる。円唇母音は非円唇母音よりも F2 が低い。

調音は、顎を少し下げて発音するのが広母音であり、顎を下げずに、舌を少し持ち上げて発音すると狭母音になる。したがって、顎を下げてもいないし、舌を持ち上げてもいない、という中間的な状態があることになり、これが中段の母音に対応する。ただし、後述するように、「下げていない」とか「持ち上げていない」というのは、相対的に考える必要がある。

日本語で言えば、顎を少し下げて発音するのがアであり、舌を少し持ち上げて発音するのがウとイである。中段はエとオにあたる。

中段に当たる口の構えは SPE (Chomsky&Halle 1968) では呼吸している時よりも舌を持ち上げた形で、英語の bed の母音に当たるとされている (p. 300, section 2.1, chapter 7). このように特定言語の特定の単語を基準とした説明は、個別言語の音韻論を記述する場合には便利だが、実際の口の構えは、個人や言語によって微妙に異なるはずである。究極的には、具体的にどのような母音が中段に当たるかというのは、相対的に決定されるべきだとおもう。定義があやふやで困るのではないかと心配になりそうだが、実際には母音の狭広を何十段階も区別する言語は知られていない。5段階が最大かもしれない (Ladefoged&Maddieson 1996. pp. 282-297, Chapter 9.1) と言われており、それほど問題にならないだろう。

IPA はこの点、やや奇妙な定義をしている。IPA では、硬口蓋(母音図でいう左上)に舌の本体を近づけて、それ以上近づけたら摩擦音が出るというギリギリの構えで作る母音を [i], 同様に、舌を下げ、母音図でいう右下に後退させて咽頭を狭め、それ以上咽頭を狭めたら摩擦音が出るというギリギリのところで作る母音を [ɑ] とし、同様にして右上ギリギリの母音を [u] (ただし、唇を丸めて突き出す), 左下ギリギリの母音を [a] (フォントによっては一階建の表示になるが、IPA の規定では二階建てである) とし、これらを基準として他の母音を定義している (『国際音声記号ガイドブック』 2003)。生理的な側面にフォーカスしていて、実際の言語を基準としていない。言語は顔芸ではないのだから、これらの「ギリギリ」母音が典型的な発音となる言語は存在しないか、もし存在しても少ないとおもう。アメリカ英語では、通常 [u] とされる母音 (“who” の母音) は、実際にはギリギリよりも少し内側である (Ladefoged&Johnson. p. 94, Chapter 4)。

音韻論と母音

冒頭の母音チャートでは前後3段階と円唇性2段階で、F2に関する区別が計6段階あることになるが、実はこれはカテゴリが多すぎるのではないかという話がなくはない。前後と円唇性で作られるカテゴリのうち5つ以上を同時に弁別する言語は知られていない。知られている言語の中では4つが最大でありスウェーデン語などがこれにあたる (Rice 1995, p. 89).

結局 SPE の前後2段階と円唇性を組み合わせた4段階が数としては正解だったんじゃないかという気がするが、4つの対立は i, ü, ɨ/ʉ, ï/u であり (ibid.) 前側2段は円唇性の対立である一方で後ろ2段は前後の対立である場合と円唇性の対立である場合があり、これは言語によって異なる。(訂正:言語によって異なる可能性があるのは ɨ/u, ï/u の円唇性であり、いずれにしても前後は対立する。)(個人的には、前側2段が前後対立だったりすること(例えば i, ɨ, ʉ, u とか )も可能なんじゃないかという気がするんだけど、これを議論で示す準備ができていない。)

円唇性と前後を一緒くたにして、F2 の値で前後を4段階に分けたいので、筆者の自前の音声記号である EKPA では次の母音図を提案している。

なお、本稿では扱わないつもりだが、いわゆる rhotic 母音のための記号も同様に前後4段階分用意しているが、rhotic 母音を4つも区別する言語はないかもしれない。(追記:ある。ただし、前後を4つに分けるものはあるかわからない。)

前後と円唇性を抽象化したこの母音図は、音韻論をやるには便利かもしれないと筆者は考えているが、最初の母音図に比べると抽象的でややわかりにくい。特に、調音を記述したい場合は、円唇性に直接言及する必要がある場合もあるので、目的に応じて、使い分けるのが良いと思う。具体的には、音声学的な記述を、精密な分析とは別に行いたい場合は、最初の母音図が便利だろう。逆に、そこから音韻論的な分析に入る場合は、EKPA の母音図が便利だと思う。

狭広は最大5段階あるって言ってるのに3段階しか用意しないのはどうなの? などのツッコミどころがあると思う。続きはそのうち書くかも。

出典

  • Chomsky, N., & Halle, M. (1968). Sound Pattern of English

  • Ladefoged, P., & Maddieson, I. (1996). The Sounds of the World’s Languages

  • Ladefoged, P., & Johnson, K. (2015). A Course in Phonetics Seventh edition

  • Rice, K. (1995). On vowel place features. Toronto Working Papers in Linguistics 114(1), 73-116


コーヒー代をください🥺