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津田左右吉

古代史を読み直してみると日本の成り立ちに興味を引くことが多い。

避けて通れないのが「古事記」「日本書紀」だ。

明治時代、岐阜県に津田左右吉という古代史を研究した歴史学者がいた。

津田左右吉について昔、学校で習った記憶があるが、名前だけで業績については何も知らされなかった。

今回「日本書紀」に興味を持って資料を集め始めたのだが、もっと早く津田左右吉の書籍に目を通すべきだった。

事実のみを追求していく研究姿勢は現代に大きな影響を与えている。

また日本の上代の社会を西人の研究なり学説なりの型にあてはめて説こうとする傾向があるらしい。その最も甚だしいのは、記紀、特に『書紀』の記載をそのまま歴史的事実とみなし、あるいはそれを民族の由来や建国の事情を語るものと解し、そうしてそれを原始的な社会組織や国家の起源に関する或る学説によって解釈することである。(.......省略)そこに二つの大きな誤りのあることが知られよう。(日本上代史の研究に関する二、三の傾向について 津田左右吉)

日本書紀をそのまま歴史的事実と捉えてはいけないとはっきり記されている。

これまで歴史的事実を記述したものと考えられていた古書が実はそうでない、ということであって、例えば『古事記』や『日本紀』は上代の歴史的事実を記述したものではない、というのがそれである。これは史料と歴史との区別をしないからのことであって、記紀は上代史の史料ではあるが上代史ではないから、それに事実でないことが記されていても、歴史がまちがっているということはできぬ。(建国の事情と万世一系の思想 津田左右吉)

「歴史的事実を記述したものと考えられていた古書が実はそうでない」と断言している。

津田左右吉博士の名前が著名で業績については、積極的には語られなかったのがここに起因していると思われる。事実を述べることが不都合な場合もあるのだ。

芸術論についても辛辣なことを述べている。事実だけに重みが計り知れない。

肥沃な土地には雑草が茂る。雑草が茂るところでなくては、美しい樹木も、良い穀物も発育しない。芸術も同様である。千百の凡庸芸術家があって、そうしてその間に真の芸術家が一、二出るのである。(偶言 津田左右吉)

橘玲氏は『芸術という腐った楽園』のなかで

こうした問題が起きるのは、日展だけでなく日本の美術界そのものが歪んでいるからです。(略)  かんたんにいうと、芸術では食べていけなくなったのです。 (腐った楽園 橘玲)

また村上隆氏は

エセ左翼的で現実離れしたファンタジックな芸術論を語り合うだけで死んでいける腐った楽園 (芸術起業論 村上隆)

3人の芸術論を統合すると

エセ左翼的で現実離れしたファンタジックな芸術論を語り合うだけで死んでいける腐った楽園に所属する、芸術では食べていけなくなった千百の凡庸芸術家が、県や市の膨大な予算に寄生して、芸術のようなことを行い、その間に真の芸術家が一、二出るのである。

ということであり

あいちトリエンナーレ表現の不自由展の開催意義がここにあったのだ。

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