見出し画像

現代を「鬼滅の刃」で読む(弐):一人称複数の狛治の視点

誰が言ったのかも忘れてしまったのですが、私の意識の片隅にあるのが「一人称複数」という言葉です。おかしな言葉ですよね、私が複数いるわけですから。

私の理解では、これは「僕」「俺」「拙者」という呼び方のことではなく、「子どもである私」「働き盛りの私」「病気を患っている私」「高齢になった私」という複数の視点が同居した「私」です。

個人の業績主義がもてはやされる今の時代に、これからの持続可能な社会を語るうえで忘れてはいけない視点です。

さて、小学3年生の息子が放置していた『鬼滅の刃』のコミック。今日は第18巻です。

鬼滅の刃の魅力の1つは、鬼殺隊の敵である「鬼」の中に「人間」を見ることができるところかもしれません。かつて静かに暮らすことを夢見た人間でありながら、絶望や怒りや恐怖から「鬼」となった者たちが、敗れ去る死の際に回想する人間の記憶。

これは、ふつうの人間がいつでも「鬼」化するリスクに晒されているという警告かもしれません。

私はこの文章を書くうえで、「現代版の鬼のイメージ」として東京都立大学の宮台真司先生が使った「鉄の檻のなかの損得マシーン」を念頭に置いています。

それでは、本日のセリフを見てみましょう。

猗窩座(鬼):「病で苦しむ人間は何故いつも謝るのか。手間をかけて申し訳ない。咳の音がうるさくて申し訳ない。満足に働けず申し訳ない。」
猗窩座(鬼)「自分のことは自分でしたいだろう。咳だって止まらないんだ。普通に呼吸できりゃあ、したいだろう。一番苦しいのは本人のはずなのに。」

上弦の鬼である猗窩座は、人間の頃、父の介護をしていました。父の病の薬を得るために悪いこともしました。その経験を経て、自分の面倒を見てくれる道場の親方の世話になり、同時に親方の娘の看病をするようになります。彼は、看病の経験もあるし、武道をやるほどに体力があるので苦ではないと言いますが、唯一辛いことは「看病される側」が申し訳なさそうにすることと言います。

看病する側の喜びの可能性について、次のような話があります。スーザン・ピンカーによるサルディニア島における人間関係と長寿の研究の中でも、お世話する側の喜びについて紹介されていました。

鬼滅の刃の作者も、そのような喜びの存在について紹介したかったのかもしれませんね。いや、私の妄想です。そのことを道場の親方に代弁させているように感じました。猗窩座の人間の時の名前は「狛治」。狛犬です。

親方:「狛犬の狛かあ。なるほどな。お前はやっぱり俺と同じだな。何か守るものがないと駄目なんだよ。お社を守伝手いる狛犬みたいなものだ。」

この後、狛治は親方の娘(恋雪)と婚約して、静かな生活を夢見ますが、その夢は周囲の嫉妬や羨望により打ち砕かれます。優しい狛治が絶望、怒り、恐怖によって鬼の猗窩座に導いてしまうのです

恋雪:「今年花火を見れなかったとしても、来年・・・再来年見に行けばいいって言ってくれた。私は来年も再来年も生きている自分の未来がうまく想像できませんでした。だけど狛治さんには私の未来が見えていた。当たり前のように来年再来年の話をしてくれたんです。本当に嬉しかった。」

(コミック第18巻より)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?