文学作品って何だろう

文学作品に限らず、芸術作品って何だろう。とりあえず本日の話題は「文学作品ってのは抽象性を持たせることによって具体像を現前させる文字媒体のもの」って感じです。

「文学作品とは何か」。二十代の大半を酒と文学と少しばかりの料理スキルに費やした手合なので、時々考える。

文学作品って何だろう、といわれると途端に答えに窮する。哲学やってるのか文学やってるのかわからない問いである。

強いていうならば虚構。じゃあ歴史書はどうなのだろう?

多分、虚構が多分に含まれる。それは例えば六国史であろうが、あるいは近現代の歴史書であろうが原理的に変わることはないように思われる。

例えば、歴史書に書かれている事柄は同時代の共時的視点を完全に反映してるとは言い難い。例えば、古代の歴史書において、農民の何某かは書かれない。転生したら農民だった件、みたいな世界線はないわけだ。

というか、平安時代ですら弥生時代と同じような生活してたわけで、「生きとし生けるもの、いずれか歌を詠まざりける」なんて生活を送れるのはごく一部だった。

じゃあ歴史書も文学作品なのか、といわれたら多分文学作品だろう。例えば歴史書である『日本書紀』はずっと読みつがれてきていたわけであるし、それに関する注釈書もある。

芸術作品として読むか、あるいは学術書として読むかの違いはあるだろうが、過去の作品が歴史的に影響を与えてきた、という点は否めない。

例えば、日本においては文学作品を有識故実の書として解釈をする読み方も為されてきたし、あるいは今日的な視点で見たらある種の牽強附会としかいいようのないような、庶民向けに道徳を説くような書物として読まれても来た。

今日の国語の授業でもある意味でその読み方の踏襲とでもいうべき読み方が為されているし、驚くべきことに、古典の教科書は内容が戦前からほとんど変わっていないわけである。

さて、そうした文学作品であるが、多分国語の教科書では「何が書かれているのか」を重視したものがメインであった。そりゃあそうである。書かれてないことを読み取ったらエスパーかあるいは文盲か、そのどちらでもなかったら阿漕な職業の輩である。

ところが、そうした営みはある種文学離れを招くような気がしてならない。作者の意図は多分作者でも用意されていたように答えられないのではないだろうか。

そりゃあそうである。その時の作者をタイムマシンで連れてくるしかない。寧ろ、作者としては書かれていないことを読み取ってほしいのかもしれない。

文章を書く時、ある程度書く内容さえなんとなく考えておけば、オートマチックに文章を書くものである。そうした意味で作者は自分自身の文章を見て、半ば自動的に文章を生産する、一人の読者でもあるといって良いのかも知れない。

むしろ、書いてから削る。無駄を徹底的に省くことに注力しているとは考えられまいか。例えば、設定が不自然すぎる、みたいな些末なものもあれば、「敢えて書かないこと」によって具体性を積極的に捨象する場合だってあるわけだ。

例えば、『伊勢物語』では結局「昔男」が業平であるか断定するすべはないし、『源氏物語』で光源氏の「死の場面」は描かれないし、夏目漱石の『こころ』で「K」が何故自死を遂げるのかも明らかにされていない。

太宰治『人間失格』では、本当に主人公が太宰治本人であるか断定することはできないし、三島由紀夫『豊饒の海』で何故主人公は輪廻転生を遂げるのかもわからない。

海外の作品であれば、『ハムレット』で、本当に「クローディアス」が父を殺めたのか定かではなく、父と思しき「亡霊」が述べることにすべてを委ねられているわけである。

結局は読者の側に「開かれた」作品であるということは、曖昧さを残すことによって成り立つといえる。

これは多分、他の芸術でもそうだ。印象派の絵画は素晴らしいが、多分実際に見える見え方はもっとくっきりとしているはずである。

つまるところ、具体性がないからこそ、個々人の経験にフィットしやすい。言語による虚構の中に敢えて曖昧さや抽象性を残し、そこを読者に補完させることで虚構を完成させる、それが文学作品であろう。

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