元ネタと作品の享受

今回は普通のコラム的なものです。

突然であるが、言語表現を伴うものはゼロから生まれてくるもの自体ないと思われる。

仮にゼロから生み出された言葉があるのだとしたら、それは作り出した当人にしか通じないであろうし、通じるようにメタ言語的な説明を加えるのならば、その時点で何かしらのゼロではない言葉を介在させる必要がある。

このことはジャック・デリダという哲学者が述べているのであるが、言語の指示作用・指標作用とかその辺の構造主義なり現象学なりの批判について述べると目茶苦茶長くなるので、細かいことはまあ良い。

今回書く内容をわかりやすくいうと「元ネタ」ってどう思う? って話をします。

元ネタって色々とあると思う。例えば「ゆうべはお楽しみでしたね!」といわれたら「ああドラゴンクエストか」と思ったり、「きたねぇ花火だぜ」といわれたら「ああこいつ、ベジータかな?」となったりとかそのレベルから、「分かる人には分かる」みたいなニッチなネタまで色々とある。

何も明示的に「元ネタ」があるとは限らない。例えば、「シンデレラストーリー」みたいな、物語の型みたいなものまで、ある意味で元ネタである。実例を一つ出そう。例えば、「浦島太郎」を例に取る。「浦島太郎」とはどんな話だろうか?

助けた亀に連れられて龍宮城に行き、そこで夢のような時間を過ごしたあと、戻ってみたら目茶苦茶時間が経っていて、「開けてはならない」といわれた玉手箱を開けて爺さんになる話。

これが一般的だろうか。昔話には教訓的な話が多い中で、実に要領を得ない教訓ではないだろうか。

「龍宮城に行かなければ、過ぎ去ってしまった時間を嘆くこともなかった」だとか

「開けてはならない玉手箱を開けてしまったのが良くない」

だとかいわれても、前者だったら「そもそも亀を見捨てるべきだった」し、後者だったら「そもそもそんなヤバいもん渡した乙姫が悪いし、何が悪いかといわれたら正義感の強いのが悪いか、そうでなければ運が悪い」と言いたくなる。

何故こんなにも教訓として要領を得ないか、といわれたら、そもそも「浦島太郎」自体教訓めいた話ではないにも関わらず明治時代に無理やり教訓っぽくした話だから、である。

元々の「浦島太郎」は実はおめでたい話だった。結論部分で爺さんになった浦島太郎はその後さらに鶴になる。鶴になった浦島太郎に乙姫が「人間の寿命ではまかないきれないので鶴にするしかなかった」といって、二人は結婚する。乙姫は実は亀の化身だった。鶴と亀でおめでたいですね、といった話だった。

こういった、異なった種族が結婚する話というのは物語の型として確立しており、「異類婚姻譚」という。ある意味で「異類婚姻譚」という「元ネタ」があった、といえるだろう。そして、近代に至り「元ネタ」抜きに換骨奪胎された物が現行の「浦島太郎」であるといえる。

さらに、龍宮城での宴の描写に「鯛や鮃の踊り」とあったと思う。実はこれにも元ネタがあり、道教における割とセクシュアルな修行の描写だったりする(性的な行為での体勢、といったらわかりやすいかもしれない)。

「長寿」のような元の文脈で読むとそうした神仙思想的な「記号」を読み取ることができるが、現行の昔話ではそうした部分は捨象されている。なお、こうした改変による記号の捨象については「桃太郎」の「桃」にも見受けられる。元々の「桃太郎」は老夫婦二人が桃を食べて若返ってからできた子どもが桃太郎であったし、桃は神仙思想ではまさしく「不老長寿」の食べ物だった。

昔話のようなものについては、改変によって元々あった「元ネタ」が元ネタとして機能しなくなっているといえるだろう。

また、古典においては近現代の作品以上に元ネタが重要だったりする。例えば『源氏物語』の須磨巻の一文で次のようなものがある。

須磨にはいとど心づくしの秋風に、海は少し遠けれど、行平の中納言の関吹き越ゆるといひけん浦波、夜々はげにいと近う聞こえて、またなくあはれなるはかかるところの秋なりけり。

まず、「行平の中納言」って誰?「関吹き越ゆるといひけん浦波」って何? といった感じだろう。

行平の中納言というのは在原業平の兄であり、在原行平という人物である。『古今和歌集』の詞書に「須磨に流された」といった記述がある。

「関吹き越ゆるといひけん浦波」は『続古今和歌集』の

旅人は袂涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風

が元の歌である。須磨に下る光源氏に関していえば、モデルが幾人か指摘されており、『源氏物語』本文に表れるだけでも周公旦、白居易、在原業平、菅原道真が指摘される。その他、源順など、讒言によって不遇な立場に置かれた人物も指摘されているところである。

こうした、いくつもの「元ネタ」の組み合わせにより一人の人物を描き出している訳である。

元ネタについて、現代では似たようなものを「元ネタだ!」と指摘すると「何こいつ」ってなるだろう。ところが、そうした「元ネタ」なり「典拠」の捉え方というのは案外普遍的ではない。

日本の物語注釈においては本居宣長以前まで「それ本当に典拠として読んでいいの?」みたいなものまで挙げられていたりする。というか、「元ネタ」みたいな感覚で典拠のようなものを挙げるのが現代的な読み方といったほうがいいのかもしれない。

むしろ、この点については読み手の側からしたらどうだろうか、と思えばわかりやすい。

例えば、アニメキャラなりドラマの登場人物なりで「ヤンデレ」を思い浮かべてもらいたい。

「『源氏物語』の六条御息所のイメージ、大体そんな感じ」

っていわれたら大分読みやすい。案外、こちらの方が物語を理解する上では便利なのかもしれない。

というか、作品よりも後の時代の人物なり創作物がその作品とセットで語られるといった現象を見ると、「享受史」といった側面で面白いように思える。

ある作品では、作品自体が改変されて結局元々あった元ネタの要素が捨象されていたり

また別の作品では後の時代の人物なり作品がセットで見られることによって、その作品の捉えられ方が変わっていく、ないしは形象化されたりするわけである。

「通時的な視点」で「典拠・元ネタ」を考えると、作品の文化的な記号としての側面が立ち現れてくるように思えるのである。



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