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「ライオン」は「歯磨き」のメトニミーになりうるのか?

 文芸評論家の加藤典洋が2004年に上梓した『テクストから遠く離れて』を当時読んだ時、最も驚いた箇所が「ライオンは歯磨きのメトニミー」というところで、その後、誰かが反論するだろうと思ったのだが、文芸評論家の絓秀実以外誰も言及することがなく、加藤が亡くなった後の2020年に『テクストから遠く離れて』は講談社文芸文庫で再刊されたのだが、本人が亡くなっていることから意見は変わっておらず、それどころか本著は2004年に『小説の未来』と合わせて桑原武夫学芸賞を獲ってしまっている。もはや誰も関心を示さないとは思うのだが、ここでは本当に「ライオンは歯磨きのメトニミー」なのか改めて検証してみたいと思う。

 最初に加藤が「ライオンは歯磨きのメトニミー」という結論に至った経緯を以下に長いのだが要点だけを引用してみる。

 まず喩とは何かと言えば、ここに「ライオン」というコトバがある。それがふつうにあの〔百獣の王〕と呼ばれる野獣を意味する場合、この「ライオン」は言葉``である。しかし、これが別のもの(たとえば〔カメルーンのサッカー・チーム〕)をさす場合、この「ライオン」は、となる。(……)
 喩は、ここでの観点、つまりラカンの観点から言うなら、大きくメタファー(隠喩)とメトニミー(換喩)の二種からなる。
 メタファー(隠喩)は、この「ライオン」が〔カメルーンのサッカー・チーム〕をさすようなケースである。このとき、「この〔サッカー・チーム〕は〔百獣の王〕のように強い」という意味内容の繋がりが、ここにあり、この「強い」という両者の媒介項が言葉の水面下に隠れている。こういうとき、この「ライオン」を、言葉ではなく喩、それもこの場合、喩の種別として、メタファーと呼ぶ。(……)
 一方、「ライオン」というコトバが、この名を冠した練り歯磨き製品、「ライオン歯磨き」をさす場合、この「ライオン」はメトニミー(換喩)と呼ばれる。このとき、「ライオン」が意味する〔百獣の王〕と「ライオン歯磨き」が意味する〔歯磨き〕の間に意味内容の繋がりはない。繋がりはむしろ「ライオン」と「ライオン歯磨き」というコトバのほうにある。意味内容の繋がりが「ない」まま、コトバ部分だけで「ライオン」→「ライオン歯磨き」→〔ライオンというコトバをもつ歯磨き〕という意味作用が生じている場合、この「ライオン」もまた言葉ではなく喩であり、この場合、その喩は種別として、メトニミーと呼ばれる。(p.138-p.140)

 個人的にはあらゆる比喩表現に関して最も分かりやすく書かれていると思われる『よくわかるメタファー』(瀬戸賢一著 ちくま学芸文庫 2017.7.10)を参考にしたいと思う。この著ではメトニミーを以下のように定義している。

 メトニミーとは、(現実)世界の中で隣接関係にある(と思われる)ものとものの関係で、一方から他方へ指示が横すべりする現象である。(p.140)

 メトニミーとは、この空間的な隣接関係(共有)と時間的な隣接関係(連続)に基づいて、ものからものへと指示がずれる現象を言う。(p.151)

 空間的な例として、受話器の換喩として「彼は電話を取る」が挙げられ、時間的な例として、サッカーの試合の実況放送で「ゴゴゴ、ゴール!」というアナウンサーの絶叫は「(ゴール)ネットを揺らす」の換喩ということが挙げられている。

 以上の説明を踏まえるならば「ライオン」は「歯磨き」の換喩足り得るだろうか? 絓秀実が指摘しているようにここでいう「ライオン」は「ライオン歯磨き」の短縮形でしかないように思うのだが、ここで実作品を取り上げてみようと思う。

 『白痴』は坂口安吾の代表作として有名な(はずの)短篇小説である。安吾は本作で「ライオン練歯磨ねりはみがき」を扱っているので、これも長くなってしまうのだがその箇所を新潮文庫の改版から引用してみる。主人公の伊沢が空襲警報を聞いて避難しようとしている場面である。

 白痴を押入の中に入れ、伊沢はタオルをぶらさげ歯ブラシをくわえて井戸端へでかけたが、伊沢はその数日前にライオン練歯磨ねりはみがきを手に入れ長い間忘れていた練歯磨の口中にしみわたる爽快そうかいさをなつかしんでいたので、運命の日を直覚するとどういうわけだか歯をみがき顔を洗う気になったが、第一にその練歯磨が当然あるべき場所からほんのちょっと動いていただけで長い時間(それは実に長い時間に思われた)見当らず、ようやくそれを見付けると今度は石鹸せっけん(この石鹸も芳香のある昔の化粧石鹸)がこれもちょっと場所が動いていただけで長い時間見当らず、ああ俺はあわてているな、落着け、落着け、頭を戸棚とだなにぶつけたり机につまずいたり、そのために彼は暫時ざんじの間一切の動きと思念を中絶させて精神統一をはかろうとするが、身体自体が本能的に慌てだして滑り動いて行くのである。ようやく石鹸を見つけだして井戸端へ出ると仕立屋夫婦が畑のすみの防空壕へ荷物を投げこんでおり、家鴨あひるによく似た屋根裏の娘が荷物をブラさげてうろうろしていた。伊沢はともかく練歯磨と石鹸を断念せずに突きとめた執拗しつようさを祝福し、果してこの夜の運命はどうなるのだろうと思った。(p.65)

 伊沢は(もちろん安吾は)何故「ライオン練歯磨」を「ライオン」と思わずに「練歯磨」と思うのか? 何故「伊沢はともかくライオンと石鹸を断念せずに突きとめた執拗さを祝福」しないのか? もしも石鹸が「牛乳石鹸」だったら「伊沢はともかくライオンと牛乳を断念せずに突きとめた執拗さを祝福」するのか? 簡潔に言うならばメトニミーの必要がないからだと思うが、結局、「ライオン」と言ってしまうと「練歯磨」ではなく「ライオンの練歯磨」を指して「花王」や「サンスター」の練歯磨ではないことを暗に示してしまい、言葉の経済効率から「横すべり」していたはずなのに、情報過多で却って比喩が煩わしくなってしまうのである。ここには頭だけで考えた評論家と感情を込めて執筆する小説家の違いが感じられる。