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安岡章太郎の謎の「宿題」

 安岡章太郎の代表作と言えば『海辺かいひんの光景』であろう。実際に本作は1960年に芸術選奨と野間文芸賞を得ており、文芸評論家の渡部直己は「不思議に生々しい虚しさ。正統派向き。ことに『回想』導入のツボと『結末』の描写の効果を学ぶべし。」として小説編の必読リストに挙げ(『私学的、あまりに私学的な』ひつじ書房 2010.7.20)、評論家の四方田犬彦は『海辺の光景』(新潮文庫)の解説で表題作しか取り上げていない。

 確かに『海辺の光景』は名作ではあるのだが、最初に安岡の小説を読むとするならば、永楽園と呼ばれる心療内科病院に入院している母親を訪れた主人公の信太郎と、母親が亡くなるまで一緒に過ごした9日間を描いた本作の話の内容と、評論家が指摘するような高度なテクニックを初心者が面白がられるかどうかは微妙である。

 初心者ならば『海辺の光景』よりも同文庫に収録されている『宿題』を勧めたい。『宿題』の初出は『文學界』昭和二十七年二月号である。

 『宿題』の主人公の「僕」は弘前の小学校から東京青山の南学校へ転校してきた小学校五年生なのだが、南学校は進学校で既に六年生のカリキュラムを始めており、主人公は授業について行けないまま夏休みを迎える。ところが南学校には弘前の学校にはなかった宿題というものが存在し、「結局、ふだん宿題をやって来るのは、立つのをいやがる連中だけだ。やつらは足が弱くてガマン強くないのだ(p.191)」と強がっている内に学校にも家にもいづらくなった主人公は墓地で過ごすようになる。

 『宿題』はこのような小学生の心の葛藤を描くことをメインにしているわけではない。ラストは墓地からあてもなくさまよう主人公がたまたま通った道の崖の壁に貼ってあった「戦争絶対反対」という黄色いビラを剥がしている背後からお巡りさんらしい足音が聞こえてくるという場面で、主人公は「褒めら」れ、学校の名誉を高めたことで宿題のことも含めてすべてが許されることを夢想するのであるが、ここでは「宿題」を自分で書いて差し出せないのならば、せめて他人が書いた「悪いことを書いたビラ」を剥がすという対照性を効かせながら「戦争絶対反対」と書かれたビラを剥がすと学校の名誉が高まるというアイロニーを放っているのである。言い換えるならば、その過剰なアイロニーで、「正しく導かれない子供は悪いことをする」と回帰してきた常識を改めてひっくり返すのである。間違いなく名作だと思う。

 と、ここまで書いてきて、新潮文庫版と岩波全集版の違いを見つけたので、引用しておきたい。

「戦争絶対反対」
 ビラにはそう書いてあった。何だって? もう一度見なおした。ビラにはトウシャ版でまだ何かいっぱい書いてあった。しかし他のことはどうでもいい。どうして戦争反対なんだろう。僕は背のびしてビラのはしをムシった。ビラがぴりとがれないのが、しゃくだった。
(新潮文庫版 p.213)

 戦争がもっとあれば、先生は兵隊へ行くと云っていた。みんな行っちまえ。重べえも金原先生も原先生も、みんな行けばいいんだ。(同 p.213)

「戦争絶対反対! ……!! ……!!!」
 ビラにはトウシャ版刷りのカスれかかった字でそんなことが書いてあった。何だって? もう一度見なおした。べた一面、小さな字がギッシリ並んでいるところは、何を言っているのか意味がわからなかった。しかし他のことはどうでもいい。どうして戦争反対なんだろう。僕は背のびしてビラのはしをムシった。レールの上に石ころを並べて電車の走ってくるのを遠くに隠れて眺めている、そんな気持ちだった。しかし、ビラがぴりと剥がれないのは、しゃくにさわった。(岩波全集版 p.79)

 戦争がもっとあれば、先生は兵隊へ行くと云っていた。みんな行っちまえ。重ちゃんも金原先生も沢村先生も、みんな行けばいいんだ。(同 p.79)

 因みに原先生とは主人公の家の向かいに住んでいる、坂小学校の図画の先生(新潮文庫 p.200)で、沢村先生も同じである(岩波全集 p.68)。おそらく『宿題』は作家本人によってかなり書きかえられたはずだと思うが、これほど重要なことが文庫解説では何も指摘されていない。