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イヴレーアのオレンジの戦い

La battaglia delle arance

北イタリアの主要都市、自動車メーカー「フィアット(Fiat)」の街として知られるトリノから、北に50キロメートルの地にイヴレーア(Ivrea)という町がある。アルプス山麓の町で、人口約2万人の地方都市だ。20世紀初頭にタイプライター・メーカー「オリベッティ(Olivetti)」の工場が置かれ、町は「オリベッティの町」として繁栄したが、PCの普及、精密機械産業の衰退と共に町は元気をなくしていった。
そのイヴレーアが一年で一番華やぐのがカーニヴァル時期だ。カーニヴァルは16世紀に起源を遡るが、何よりもカーニヴァル最中に開催される「オレンジの戦い(La battaglia delle arance)」でイタリア国内ではよく知られている。

イヴレーアのカーニヴァルの行事は毎年、カーニヴァルの「告解の日曜日」から「告解の火曜日(マルディ・グラ Mardi Gra)」まで3日間行われる。マルディ・グラにはさまざまな解釈があるが、この地方はフランスの影響が強く、フランス語で「マルディ(Mardi)」は"火曜日"、「グラ(Gra)」は"脂肪"を意味する。翌日(灰の水曜日)からは脂ぎった食べ物は禁止しなければならないので、この日に脂ぎった(グラ)ものを食べておこうという意味らしい。3日間のカーニヴァルは、毎日午後一の歴史絵巻のパレードで始まる。

イヴレーアのカーニヴァルは15世紀に起源を遡る。19世紀初頭、ナポレオン一世のイタリア侵攻時にイヴレーアはフランス軍に占領されたため、パレードの行列にもフランス色が色濃く残る。また19世紀半ばのイタリア統一に際しては、北イタリアが中心になっていたこともあり、パレードには地元ピエモンテ軍の「イタリアの狙撃兵(Bersaliere)」などの衣装で行進する。

3日間毎日、パレードの後に市中の広場を戦いの場に「オレンジの戦い」がある。
オレンジの戦い」は昔、許婚者を求めてきたものが、階上にいる異性に果物や野菜を投げる、それをまた投げ返す習慣から生まれたという。ある時、フランスのニースからイヴレーアに来た男性がコートダジュールのオレンジを持って現れ、求婚者の窓にオレンジを投げ込んだのが始まりとか?

オレンジの戦い」は繁華街の広場が戦場となり、各戦場には弾薬代わりのオレンジが箱ごと積まれ、攻撃班と補給班に分かれる。戦場に馬車の軍団が入ってくると、一斉にオレンジを投げつける。

現在の「オレンジの戦い」は、第二次世界大戦後の1947年にオリベッティの工場地区の住人達のスペードのエースと名前をつけた戦闘部隊から始まった。その後、モルテ(死者)、デヴィルス(悪魔)、スカッキ(チェス)、パンテーレ(豹)、スコルピオーニ(さそり)などなどの名前を冠した九つの軍団が出来上がり、今日の「オレンジの戦い」に発展した。

歩兵は無帽が決まりで、観客は戦場に入ってはならない。前週の木曜日から戦士にならないものは赤いフリージア帽を被らなければならない。赤い帽子を被っていないものには前週の木曜日の夜から翌週の火曜日(マルディ・グラ)の間はオレンジを投げつけても良いことになっている。
撮影のために赤い帽子を被り、取材班の腕章も貰っていたためか、無事、オレンジを投げつけられずに済んだ。しかし野戦会場に降りると、オレンジの飛沫が激しく、カメラのダメージが心配になった。

軍団は2頭の馬に曳かれた「パリリエ(Pariglie)」に10人、4頭の馬に曳かれた「クァドリリエ(Quadriglie)」に12人の戦士が乗り込んで戦う。戦士たちはマスクを付けたヘルメット、御者も厚めの防備服と頑丈なヘルメットを被って応戦する。勝敗は、ジュリーの特別委員会が戦闘の進行状況を観察し、熱意、技術、忠誠心、馬の躾、状況なども判定の対象になる。

毎年600トン、大型トラック30台分のオレンジが戦いに使用される。オレンジは南イタリアのカラブリア地方産で、食用に適さないオレンジを運んできている。地面に落ちたオレンジは戦いの後、市の清掃局が集め、数日放置し、肥料にして農地に撒いているという。しかし毎年異口同音に食べ物の無駄使い、市街地の清掃面、市の下水槽の汚染や戦士たちの負傷などの問題で、この戦いの継続の是非について議論されている。
2025年のカーニヴァルは2月27日(木曜日)。イヴレーアの「オレンジの戦い」は3月3日(告解の日曜日)、4日(薔薇の月曜日)、5日(脂の火曜日)の3日間。

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