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聖アグネス

Agnes

純潔の聖少女ゆえに

聖人の守護対象や聖名の由来などには、意外にも語呂合わせ的なものもある。
聖アグネスの名前の由来については、何故ラテン語で"子羊"を意味する「アグネス(Agnes)」と命名されたのか、はっきりとは分かっていない。生まれた娘が、"子羊"のような可愛い子ちゃんだったからなのか?
ともあれ、ヨーロッパの美術館で"子羊"と共に女性が描かれていたら、それは紛れもなく聖アグネスの肖像画といえる。

「聖アグネス立像」(フランシスコ・デ・スルバラン作 パリ・ルーヴル美術館所蔵)

聖アグネスは、3世紀末、皇帝にも繋がるローマの名門貴族クラジオ一族の娘として生まれた。
その美貌と家柄から長官の息子から求婚されたが、キリスト教徒であったが故に拒否したところ、信仰を棄てて息子の嫁になるか? 拷問にかけられるか? の選択を余儀なくされる。

「聖アグネス肖像」
(オラツィオ・ジェンティレスキ作 フィレンツェ・ピッティ宮殿パラティーナ画廊所蔵)

アグネスは棄教しなかったために捕らえられ、火と竈の女神ウェスタの神殿への供養を強要された。それも拒否したためにアグネスは娼館に送られた。

「牢獄の聖アグネス」(ホセ・リベラ作 ドレスデン・アルテ・マイスター絵画館所蔵)

聖アグネスが娼館に送られ、意地の悪い長官の命令で全裸になるよう言い渡されると、髪が伸び聖女の身体を覆い、天使が現れ、純潔のしるしでもある白い布で聖女を覆ったという。
何やら、聖女マグダラのマリアのロン毛伝説を彷彿とさせる逸話だ。

聖アグネス・イン・アゴーネ教会の聖アグネス礼拝堂の聖女像

聖アグネスはローマ皇帝ディオクレティアヌスの統治下の304年、13歳の時に現在のナヴォーナ広場(Piazza Navona)となっている競技場で焚刑に処された。
細長い広場は、ローマ皇帝ドミチアヌス帝が築いた収容人員3万人の競技場跡で、多くのキリスト教徒が犠牲になり殉教した場所だった。
焚刑の炎は聖女をよけるかのように2つに分かれ、刑を執行することができなかっため、最後は剣を刺され殉教した。

「聖アグネスと洗礼者聖ヨハネ」(ティツィアーノ作 ディジョン・ボザール美術館)

ギリシア語のhagnē (発音αγνή =純潔)とラテン語のアニュス(Agnus =子羊)の語音が似ていることから、"子羊"が聖女のアトリビュート(象徴)に選ばれた。「純潔」「生贄」を意味する"子羊"洗礼者聖ヨハネのアトリビュートでもあることから共に描かれることもある。
守護対象は婚約者、夫婦、純潔、女性、性暴力被害者、作物、庭師。

聖アグネスの記念日(1月21日)にローマの城壁外の聖アグネス教会(Basilica di Sant'Agnese fuori le mura)で記念日の特別ミサが行われる。
その日の早朝、ローマ郊外の修道院で飼育されていた子羊が洗髪、整髪され白い晴れ着をきせられて、教会に運ばれる。
ミサの1時間ほど前から教会のエントランス・ホールに置かれ、ミサ参加者たちを出迎える。

御輿に載せた子羊

教会のエントランスでお披露目が終わった後、教会近くの高校の女学生たちが、子羊たちを載せた御輿を担いで堂内の主要祭壇へ。
記念日のミサで祝聖を受けた後、子羊たちは車で修道院へ戻る。
復活祭前の聖金曜日、子羊の毛はかられ、その羊毛で新たに叙任された首都大司教パリウム(祭服の一種)が編まれる。

城壁外の聖アグネス教会は、聖アグネスの遺体が葬られたカタコンベ(地下共同墳墓)の上に築かれた。
7世紀に教皇オノリウスがローマ最大のカタコンベの上に現在の教会を献堂した。
壁面を飾る一部のモザイク画などは、7世紀前半の建立時のもので祭壇後陣の天蓋には、モザイク画で聖アグネスが描かれている。
教会の後ろには、聖アグネスを崇敬していたコンスタンティヌス大帝の娘、聖コスタンツァの霊廟もある。

聖アグネス・イン・アゴーネ教会

ローマの中心街、現在ローマっ子、観光客の憩いの場となっているナヴォーナ広場に面して、聖アグネス・イン・アゴーネ教会(Chiesa di Sant'Agnese in Agone)がある。
芸術愛好家でもあったパンフィーリ家の教皇、イノケンティウス十世の命により、17世紀半ばに聖アグネスの殉教の地に建てられた教会だ。
教会は教皇家のパンフィーリ宮殿に隣接して、バロック期の建築界の巨匠ボッロミーニよって建てられた。
教会の前には、バロック期の彫刻界の天才、ベルニーニ作の四大河川の噴水がある。
噴水の水は、乙女殉教聖者を記念して郊外の乙女の泉から引かれている。

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