僕らが知らないこと。ライチの木が知っていること。

2019年3月19日@深セン

昨日の夜は、ライチ公園(荔枝公园)···に行ってきた。ライチ公園は、深センの老街の付近にある割と大きな公園で、ゲイの発展場として有名だという記事をおぼろげに読んだことがあり、訪れてみた。公園は地下鉄の駅を降りてすぐにある。駅から公園に入る道すがら、21:00になろうかという公園の中から、すでにたくさんの人の気配を感じた。僕が公園に入ろうとすると、携帯を持った女性が出てきた。私は公園の中に入っていった。そこは、夜の公園ではあるものの、決して暗くはなかった。あちこちで、声、声、声がした。マラソンをする人の息づかい。恋人同士でベンチに座る若者カップル。広い公園には、私が想像していた以上に多くの人がいた。大阪にある深夜の靭公園みたいなイメージをしていた私は面食らった。都市にある公園の機能は、日本の少なくとも私の知っているそれとは違う。日本での夜の公園は、一般的には静かだし、犬を連れて散歩をしたり、ランチングをしたりする人はいても、人数は限られている。ここでは休日のイオンモールみたいに人がいるのだ、夜間の公園に。
僕は公園を1時間ほどうろうろしていたけれど、ゲイらしい人を見つけることができなかった。少し時間が早すぎたのかもしれない。百度地図にはこの公園は23:00まであいていると書かれていたが、もしかすると、23:00以降に人が集まってくるのかもしれない。入り口はあるものの、自由に入ることも可能な作りに、この公園はなっていた。インターネットで調べた情報ではライチの木の下がゲイが集まる場所として有名だと書いていたけれど、生のライチでさえ数えるほどしかみたことのない僕にとっては、どれがライチの木だかなんて、皆目見当がつかない。それにたとえ、ライチの木があったとしても、これだけの人がいたら、誰がゲイかなんてわからないだろうし、ましてやハッテンなんてもってのほかだろう。僕は、その日は結局、たくさんの歩数を歩いただけになった。
そもそも、公園にこんなに人がいるだなんて思ってもいなかったのだ。中国は、どこにいっても人がいる。あぁ、ここには、私が一人になれる場所などないんだ、と僕は思った。誰もが、場所を分け合い、奪い合い、戦い、ここにいるのだ。そんなことを、全然関係のない公園の中で感じた。公園の中央にある池を目指して僕は歩いた。その道すがら、40人ほどで合唱している人々がいた。大きなラジカセのようなスピーカーから流れる中国の歌に合わせて、皆で同じ音階を歌っている。40代から60代ぐらいの男女のようにみえた。その姿は、なんとなく日本の歌声喫茶(あぁ、この言葉がわからない世代ももうあるだろうけれど)のように思えた。とても楽しそうに、赤や黄色や、オレンジや、紫の、中国特有の原色の服装が、ライトに照らされる。そこの空気は、中国の大きな流れと、人々のささやかな楽しみと、世代と、昔ながらの方法と、若者への驚きと、たまたま居合わせた僕の感じるノスタルジックなニュアンスとが混ざり合っていた。僕は泣いてしまいそうだった。いろんな矛盾を抱えた場所で、僕らは、こういうふうに歌を歌うしかないのかもしれない。皆で、歌を。それは、とても楽しく、とても寂しい。そして、僕らは、もうみんなで歌を歌うのに、公園で歌ったりしないのだ。僕らはカラオケに行く。カラオケで消費をし、消費に基づいた楽しみを買う。私達はその消費のために働く。
私達の楽しみや他者との共有は、公園ではもはや行われないものなのかもしれない。だんだんと、私達の共有、楽しみ、喜びは、公共から消費を中心とした文化へと移行してきた。それは中国でも同様だろう。20年たったら、中国の公園は姿を変えているだろう。もはや、座ってゲームをする人々もいなければ、公園で歌をうたう人もいないだろう。私達は、さらに細分化され、さらに消費を促され、それにより友達を獲得したり、会話をしたりする。私達は、もうライチの木の下でセックスをすることもなければ、ライチの木の下で歌を歌うこともない。私達はカタログのようにアプリで男を選び、そして選ばれ、セックスをしては別れる。わたしたちは、カラオケにいくために働き、歌うことが消費することになる。私達はどこででも歌えたはずなのに。私たちは、歌う場所をお金で買うようになる。いつしかお金がないと歌えなくなってしまう。私達は、私達が集えて、声があれば、歌えたはずなのに。
発展!IT!進歩!GDP!
深センが抱える矛盾とその大きな流れの中で生きている人々とを僕はみている。躍動感がある。日本が停滞ならば、深センは動き続けている。若者が多い。みんな走っている。僕はそこで僕ができることはなんだろうかと考える。僕らが失って、彼らが、今まさに失いそうなものを、僕は横で声を出せずに眺めているような気がする。
ライチの木の下で、僕らがセックスしていたことを。ただ、それだけを、僕は伝えたかったんだ。

にじいろらいと、という小さなグループを作り、小学校や中学校といった教育機関でLGBTを含むすべての人へ向けた性の多様性の講演をしています。公教育への予算の少なさから、外部講師への講師謝礼も非常に低いものとなっています。持続可能な活動のために、ご支援いただけると幸いです。