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一人ひとりがエネルギーを強く持っている

私は16personalitiesでINFP‐T型と診断され、幼少期からHSPであった。そのため、人一倍感受性や共感性を強く持っているようである。
そのうえ、適応障害を発症し、感覚過敏・感覚鋭敏状態に陥ったことにより、少しの刺激でも気になってしまい、ひどく疲れ、眠れない日々が今でも時折ある。ただ、最近は感覚が鋭い状態に慣れたのか、感覚が鋭い状態でも、イヤホンを外して外を歩いたり、人と話すことが少しはできるようになった。

感覚が研ぎ澄まされている状態で外に出た時に感じたことは、この世界にあふれる濃密なエネルギーである。例えば、チェーンソーの回転している様子からは、とてつもないエネルギーを感じる。回転している様子、回転するモーターの音、また、悲観的な想像力により「危険」や「恐怖」を感じていることも起因しているかも知れないが、ただ回転しているだけではなく、強いエネルギーを発しているのを感じ、圧倒される。
ただ、無機物に対してエネルギーを感じるのは、主に2つの場合のみだと思っている。一つは、物体が発熱や、運動によりエネルギーを発出しているとき。もう一つは、人により強い念を込められて作られた場合である。最初の例は、先程のチェーンソーの話である。もう一つは、芸術作品や、入念に作られた道具などが該当する。
同じ金属塊でも、人形に造形された銅像のほうが、物言えぬ雰囲気、エネルギーを宿している。物理的にその銅像が持つエネルギーは、ただの金属の塊と変わらないにも関わらず、である。絵画においても同様であるように感じる。ただの絵の具ではなく、なにかしらの思いにより造形されたことにより、念によって表現されているものも、作品から発せられているように感じる。人々は絵画から、その書かれている内容だけでなく、発せられているエネルギーからも作品を鑑賞させられているのだと思っている。(だんだん某ジャンプ漫画の有名作品の様になってきたが、目を瞑っていただけるとありがたい。「念」なんて言葉を使うからだ…)
そして、無機物ではなく、生物については、一つ残らず強くエネルギーを持っているように感じる。犬の体温、息遣い、鳴き声などから、底しれぬエネルギーを感じる。非生物のエネルギーとは全く違うもので、より終わりが見えない感じがする。人の死や、動物の死には何度も遭遇した訳では無いが、病院で弱っている人からは、どれだけ笑顔で話していても、生気が吸い取られた、つまり、内なるエネルギーをだいぶ失ってしまったように感じるし、亡くなった人や動物を見ると、亡くなってしまった悲しみ以上に、そこにはもうエネルギーは全く感じられず、もういない、ということを痛感させられて、「恐怖」の感情も強く抱いてしまう。
エネルギーを強く発しているときでも、ポジティブなエネルギーなのか、ネガティヴなエネルギーなのか、その現れ方によって、私の受け取り方は変わってくる。悲痛な思いや、怒りの感情は、声に出したり表情に出したりすれば、もちろんそれは私の共感性を通じて襲ってくるし、表に出さなかったとしても、少しばかり「恐怖」や「心配」を与えるのである。杞憂に終わったとしても、確実に多少のネガティヴな感情をいだいていたというケースが多い。高らかに笑う声だとしても、われを忘れてしまったり、自分の快楽におぼれている笑いでは、どうしても心を突き刺しに来る。乗せられて一緒に笑ってしまうことももちろんあるが、行き過ぎたテンションにはついていけない。人に悪意を向けるような笑いなら、さらに「恐怖」が襲ってくる。
また、私は昔から音楽が好きだったからなのか、音楽を沢山聞かされたからなのか、先天的なのかわからないが、聴覚の過敏が特に重症であるように感じる。体調がすぐれない最近は、カクテルパーティー効果はなかなか働かないし、不愉快な音は体調不良に直結してしまう。そんな状況なので、どうしても思ってしまうのは、「みんなそんなにエネルギーを強く発する必要ないのに」である。

生物である以上、一人ひとりに強いエネルギーが内蔵されているし、声を発しさえしてくれれば、そんなに強くエネルギーを発さなくても、私には聞こえるのである。エネルギーをめちゃくちゃに余計に詰め込む必要は無いんじゃないか、と思ってしまう。思いやりや喜びのエネルギーであれば強くても大歓迎であるが、、、もちろん、感受性豊かな人は世界の少数派だし、相当なエネルギーや言葉を使わないと伝わらない人、あるいはどれだけ言葉を尽くしても変わらない人もいるのだろう。とはいえ、そこまで強いエネルギーを発さなくてもいい世の中になればいいのに、とふと難しい願いを思ってしまうのである。

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