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晴 耕 雨 読(梅雨にあげたかった)

(※標記の通りですが、温めすぎて季節が進んじゃった。天気が悪いならいいかなと思ったら晴れっぱなし。さすが晴れ男。)

 先日角川武蔵野ミュージアムへ行った際、敷地内に神社が建立されていました。何気なくおみくじを引いたらことわざの欄には、温故知新と記されていまして。長雨の季節に入ったことだし、このけたたましい雨音では特にすることもなく。年齢相応に落ち着いて本を読んでみて、ライター講座に通ってた昔取った杵柄をふるってみようと思ったわけです。本の博物館で引いたおみくじだしね。というわけで今日はヨルシカの「幻燈」を、読んだので感想を書きなぐっていきます。

 なんで、バンドのアルバムを読むと表現するのか。ヨルシカはもともと物語性の強い作品を作るバンドですが、今回リリースされた「幻燈」という作品にはCD等は付属しておらず、販売の形態も画集…つまりは本なのです。
 ってかなんで本読んだだけで温故知新なんだよwと思われるかもしれませんが、こちらの画集タイトルが過去の有名文学作品から引用又はモチーフとされていて、正に古きを温めて新しきを知ることのできる作品なわけです。

 CDは付属していないので再生方法は、URLから指定のプレーヤーを立ち上げ、画集の絵にスマホをかざすとARで絵が浮かび上がり、楽曲が再生できる仕組み。つまり一枚一枚ページを捲って、スマホをかざして、再生ボタンを押さなくてはいけないわけです。
 なんでこんな面倒な仕様にしたのかというと、画集の前書きには、「唯一性」とNFTに触れながら時の潮流と今後の創作を見据えた今作のコンセプトが語られています。
 NFTとは、デジタル上の画像や音声データ等について、ブロックチェーン技術によって記録される要はオリジナルであることの証明です。今までフィジカルのメディアでしかできなかったその「唯一性」がデジタル技術の進歩のおかげでデータにも付与されやり取りができる時代が来る。サブスクやダウンロードという手軽さの時代に、画集を買って実物を持っていてそこからしか楽曲のデータにアクセスできないようにする。ブロックチェーンの比喩としてこの画集を作りたかった、と。

 ワンタップで楽曲が次々と流れ続けるサブスクリプションにどっぷり肩まで浸かってしまったミレニアル世代の私には懐かしくもいささか煩わしい仕組みで。歌詞カードやライナーノーツをめくりながら一曲一曲聴いてたあの頃。ケースから外す時、プレスが強すぎてなかなか外れない新品のCDが割れないか怖った。はやる気持ちを抑えきれず半開きのプレーヤーにCDをセットして再生ボタンを押す。取り出しにくい歌詞カードに四苦八苦して(時には爪を立ててよれて)、興奮から手あかがつくことに少しがっかりしながら。確かに手に取れるフィジカルのメディアで音楽を聴いていた時はこんな感じだったな。
 感覚を伴う体験は記憶に残りやすい。音楽がメモリーカード化することついて賛否どちらの気持ちもありますが、捲る紙の厚さ、インクのにおい、装幀の糊のはがれる音…どれも私より下の世代には新しい体験や価値をもたらすものだと思います。それとともに、このデジタルの時代においては、冒頭でn-buna氏が述べた今後NFTで証明されることになるであろう「唯一性」の体現となる作品であって。(比喩なんだから当たり前だけど)アートは社会の中にある問題をどう体験させるかを常に模索してるし、それが表現者の個性だからという…こういうところがヨルシカは好きです。

 …ただまぁ。不便っちゃ不便だし、いい紙なのでそこそこ値段も高いんですよ…。人に勧めにくいのが唯一難点。だから感想を記すのですけどね。
 他の人が批判していたコンセプトと成果物の乖離という点も理解できなくはない(NFTだから絵画にしたんだろうと安直に思ってたけど)。でも私はそもそも何かを創ることそれ自体に敬意を持っているのであんまりに気になっていないです。それに創作なんて基本オナニーであり、価値をつけるのは我々なんです。

 さて、前置きが長くなりましたが全体的な感想。今作の印象はこれまでのの破壊衝動的な激しく複雑なギターロックというより引き算を重ねた、より研鑽されたバンドサウンドといった印象です。ギターに固執するのではなく敢えて音数を減らしたり、他のアンサンブルで表現したり、繰り返される数小節を根幹に構成され、サビで解き放たれるキャッチーさ、あえて余白をつくる構成は正に行間や起承転結といった文学作品を読んでいる感覚に近いです。そしてバンドが一歩引いた分Vo.suis氏の表情がよりはっきり聞こえるし更に多様になったと感じます。伸びる、がなる、掠れる、憂う、焦がれる、凍える、妖しく、優しい…挙げればきりがありません。
 以下、各曲の感想の乱筆乱文です。

第一章「夏の肖像」

「夏の肖像」-(分からない)
 アコースティックギターを主体にして構成されたアレンジの中、跳ねる風の様に爽やかなsuisさんの声と寒色ような少し寂しい含みを持ったn-buna氏のコーラスが晩夏の''緑道''を思わせてくれるような曲。サビ前のギターのアームプレイが風が抜けるみたいで心地いいです。
 すでに別れた男女がぼやけていく思い出を肖像として描くようなそんな曲。夏木立の緑道とあなたの輪郭が同化していくそんな感じ。画集や肖像というワード後述の曲からも今作の主人公は画家なんだろうと想像できる曲。
─「忘れることが苦しい それも正しいのでしょう」

「都落ち」-(万葉集 第2巻116番)
 初見の時は紀貫之の土佐日記かと思った。違った。 
 サウンドが和のテイストを意識しているのはさることながら、suisさんの発声による世界観の構成も大きい。吟じます。明るい声音やアレンジはさることながら、別れたことを後悔している節のある結構切ない歌。だのにそうは聞こえないは、ヨルシカの得意分野だと思います。
 掛け言葉による言葉遊びが好き。「思い出に都落ち」というあの頃に戻りたい気持ちをこんなにオシャレに言えることに脱帽。
-「今、思い出に僕は都落ち」


「ブレーメン」-(グリム童話「ブレーメンの音楽隊」)
 みんなご存じブレーメンの音楽隊。
 とにかくこの曲に合わせて歩くの気持ちがいい。歩が勝手に進む。裏打ちのリズムが気持ちいい。ブラスも楽しい。音楽隊だからね。
 つらいから逃げ出そうとか数年経てば誰も覚えてないとかではなく、「暇なら愛をしようよ」の一節が好き。まだいるかどうかも分からない君に愛をしようと語りかけているなら切ないし、まだ二人でいるなら手持ち無沙汰で投げやりな愛のしぐさって感じが好きだし、亡くなった君に向かって吐いた言葉なら、君がいないなら、それ以外誰でも彼でも同じ愛を注げるっていう悲しい博愛にも聞こえる。
-「暇なら愛をしようよ」
 「暇ならわかり合おうぜ」

「チノカテ」-(アンドレジット/寺山修司訳「地の糧」)
 カタカナにしたところが好き。地の糧、知の糧、血の糧。地の糧が正しいタイトルなんですが、なんでもあてはめられる。思い出には身体を維持する機能がある気がする。つまり血の糧。思い出に味はあるのか…?あると思うよ。ソファも本も捨てよう。身体捨ててというか心を解き放ってとかそういう意味だと解釈している。
 とにかく旋律が美しい。冒頭にも書いた引き算のバンドサウンドの完成系の一つだと思う。絵描きの彼と画商の彼女という本作の主人公たちの関係(MVかライブ観ないとわかんないけど)の物語を一番強く表している曲。「画家」「白い花」「窓辺」「夕日」「思い出」「本」「ソファ」とかとかとか。
-「本当は僕らの心は頭にあった 何を間違えたのか 今じゃ文字の中」


「雪国」-(川端康成「雪国」)
 しんしんと降り積もる雪、足元を埋め尽くす底冷えの白。見渡す限りの銀世界、目や口をついて出る熱い想いが、瞬間、すべて冷めて相手に届かないような酷寒。最低限のメロディとエレキピアノの伴奏。ぽつりぽつりと漸く絞り出した言葉が雪に閉じ込められるような静かさ。まだ燃え残る暖炉の火が衰えるさまをゆっくり見ているような。(このイメージを書いてて『僕の名前で君を呼んで』のラストシーンを思い出した)そんな映像を想起させる、圧倒的な静けさと叙情的なボーカル表現のギャップがとても美しくて本画集で一番好きな曲。この曲のために画集買ってもいいくらい好き。
-「僕らの憂いが日々日々積もってまるで雪の国ね
  どうか躊躇って 貴方も想って
  雪が解けるまで
  愛が解けるまで」

「月に吠える」-(萩原朔太郎「月に吠える」)
 咳払い等のSEが重なって曲になっていたり、オーギュメントが多用されていたりサウンド的にもほの暗くて怪しい月夜の路地が想像できる。
 ヨルシカに度々登場する、「月明り」「(心の)穴」「君」「夏」から夏を取って代わりに「夜」を足したらこんな感じになるのかなって曲。朔太郎の感じていた挫折や嫌悪や渇望はわからないが、月までも奪ってしまえと宣えるほど狂えたらどれだけ楽だろうという気持ちは時折わかる。
-「誰にも見えてないのか この醜い獣」

「451」-(レイ・ブラッドベリ「華氏451度」)
 ボーカルはまさかのコンポーザーn-buna氏。掠れたハイトーンのがなりが気持ちいい。これも裏拍のギターのノリが絶妙。
 自己検閲の末に自分が燃えているというクリエータあるあるを描いているような、まさに自己炎上というか。ただ思うに「確たる私」は実は存在し得なくて。
 この曲の絵(ジャケ写)のように、実際私は何人もいて。職場友達恋人家族へ向けたそれぞれの立場の私。その何人もいる私がそれぞれの立場から今弱った私を見てそれぞれが正論で攻めてくる苦しさ、自分で自分を抜けられない絶望のような、なんでもいいから消費して虚しさを埋めたい、とにかく自分なんて早く燃えろ!という気持ちは創作をしていない私でもわかる気がする。
-「あぁ面倒くせぇ」

「パドドゥ」-(芥川龍之介「舞踏会」)
 パドドゥはバレエの男女コンビの踊りの型だったと記憶している(ヘンダーランドでオカマ魔女が踊っているやつ)。この画集の中で同率2位で好きまである。これも夏の匂いがする。でもなんだろう。明確に「もう終わったハナシ」の匂いがする。イントロのグロッケンかなヴィブラフォンか…から。風に秋が混じっているというか。雪国で別れてしまった二人が思い出の中で踊っている。そんな感じがする。
 ここで三拍子のメロ入れてくるかーっていうところが憎い。それこそ芥川の小説ような美しい一夜、もといひと節だ。花火って好きだもんね一瞬で永遠で。
-「僕ら芥川の小説みたいに 今だけの思い出になろう」

「又三郎」-(宮沢賢治「又三郎」)
 どっどうどうどう。偶然でも勘違いでも思い上がりでもよかった。他力本願に今の社会的環境を変えてくれる何かが欲しかった。縋りたかった。そんな風に思ってもいいじゃないか。って。だって臆病なんだ私。
 私は基本自責感情が強く、自分の機嫌を取るのに自分で行動しているのですがたまにこういう気持ちになって。そこに刺さります。
 従来のギターロックなヨルシカが好きな人にも間違いなく刺さる疾走感あふれるアレンジ。静と動のボーカルの抑揚が気持ちいい曲。
 悲しみも夢も飛ばしてゆけという、希望の象徴になりそうな、でも凡人にはある種の呪いの側面もある夢という言葉。それも飛ばしていけと言ってくれるのがにくいというか、わかってるなーと思う。
-「悲しみも夢も全て飛ばしてゆけ、又三郎」
 「行けば永い道 言葉が貴方の風だ」


「靴の火花」-(宮沢賢治「よだかの星」)
 うつむき泣いた。靴の先に涙が零れ落ちてまるで花火みたいだ。劇中、夜鷹が高く高く昇っていく事と所謂成仏がイメージとして重なる。太陽を目指した夜鷹が見た景色はどこまでが現実でどこからが幻なんだろうか。
 ヨルシカが指導した際のお披露目曲のリレコーディング曲。私見としては本作のボーカルの方が感情が前に出た優しい深みのある声をしていること、ギターリフのパートがピアノやストリングスに変わっていてより聴きやすくなったこと、n-bunaコーラスの追加で切なさが増したように感じる。情動に任せて作った処女作がいいか活動を経て深みを増した方がいいかは好き好きだと思うけど歌詞重視派としては今作の方が情景は伝わると思う。
-「朝焼けた色 空を舞って 何を願うかなって愚問だ」


「老人と海」-(アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」)
 「想像力という名の重力の向こうへ」…想像力でどこまでだって行けるのは、自分が想像できる範囲まで。夢で死ねないのはそこまでしか知らないから。ゲームの主人公がプログラミングされた世界の端から出られないように、想像力はこの頭蓋の中で完結する。書を捨てよ、街に出よ。リアリティは部屋の中には頭の中にも転がっていない。
 私の想像する夏に田んぼはないし山もない。サツマイモの葉に覆われた一面緑の畑。どこまでも立ち上る入道雲。空と水平線をつなげた丸い青と。砂浜ではなくまだ荒い石の転がる海岸、蝉の声が降る藪椿の長い長い参道、紫色のうろこ雲にひぐらしと腕をなでるすこし肌寒い風が夏の終わりを告げる。君の夏はどんなだい。
 ひたすら繰り返すギターリフが寄せては返す波の様で、本当に浜辺にいるかのような気持ちになる。老人がそうであったように、いわば自分へ抗うような静かに力強く紡がれていく詞が刺さる。
-「風に乗って 僕の想像力のという重力の向こうへ」


「さよならモルテン」-(セルマ・ラーゲルレーヴ「ニルスの不思議な旅」)
 ガチョウの鳴きマネがかわいい。クワックワッ♪
 児童文学に想いを寄せて、あの頃を思い出す。郷愁に留まりたい気持ちと、大人になっても純な気持ちのまま高みを目指す、目指していかなくてはいけない気持ちと、その両方の気持ちに折り合いをつけて長年読み進めていなかった本の最後の2ページを捲る。
 捲らなくてはいけないんだと強く感じた。前段の話にも通じると思うが、この曲の歌詞には跳ねたり、転がったり、香ったり、触覚に訴える言葉がたくさんある。だから捲るなんだなと思った。自分の気持ちに触れていかなければならないし、物語は自分で進めなくちゃいけないし、自分で折り合いを付けなくてはいけない。そして感覚を通して知覚して記憶しておかなければならない。だからデータじゃなくて本を捲る。
-「実は自分が特別じゃないと ただ知りたくないだけで」


「いなさ」-(C.W.ニコル「勇魚」)
 いなさ(勇魚)とはクジラのことらしい。ということはハーマン・メルヴィルの「白鯨」の可能性も…?白鯨は、モビーディックという白いマッコウクジラに足を食いちぎられた捕鯨船の船長エイハブが復讐のために仲間を巻き込み己が命を燃やす作品だが、あくまでクジラはモチーフといった感じ。そもそも白鯨は宗教的要素も強くて読み切れてない。ので能書き垂れたけど正直どう引用されているかわからない。(っていうか勇魚も読んでない)そもそも自分は原作原理主義者というか、ここで描かれていることが全てだと思っているので考察とかはしないし受け付けない。
 だからあくまで聞いた感想だが、原生クジラが生息した比較的浅瀬の海域で屈折光に満たされながら水中を揺蕩うように微睡むイメージや、それより暗い深海でただ一人52Hzで思いを叫ぶクジラの姿が連想された。アームプレイでクジラの鳴き声を表現している部分が狂おしく好き。
 海の中で感情を爆発させるような世界観は「ノーチラス」にも似てる。僕はそこへ行かなくちゃだめだ、生まれ変わってでも。僕は君に会いに行かないと。
-「瞼を落として 蓋して 夢も覚めないほど眠って もう自分を許して」


「左右盲」-(オスカー・ワイルド「幸福な王子」)
 MVに、一般的な男女の別れを思い描く。その時思い出の君がだんだん曖昧になることを左右盲に準える、とある。確かにもう思い出せないけど心の中に澱の様に残っている感じはまさにと思う。(宝飾品を分け与え像自体が燃やされても鉛の心は残る。同じ様に思い出せないだけで忘れられないことがある)心を(忘-心)=亡わすれるほどの幸福。って言葉遊びは面白いなーと思った。1番と2番で左右の手が入れ替わっていることも細かくていい。
 どれだけ曖昧になっても、例え思い出せなくなっても心に確かに居るっていう世界観が純愛主義のn-buna氏っぽくていい。俺も結構ロマンチストで誕生日に花束とかあげちゃうくらい。全てを捧げてでも例え別れた後行く道を案じているのも、そうしている自分が好きなだけかもしれないけど気持ちめっちゃわかるのでいい。
 Cメロのストリングスの多用は最初は受け付けなかったが、程よく曲をロマンティックにしているというか、そのあとにくるアコギの伴奏だけのサビのリフレインにより切なさが出ていいなーと思う。
-「少しでいい 君の世界に少しでいい僕の靴跡を」


「アルジャーノン」-(ダニエルキイス「アルジャーノンに花束を」)
 最初は売れ線すぎると思った曲。コード進行とかストリングスの多用とか。どうにもその気持ちはぬぐえなかったが、MVのアルジャーノンとチャーリィに見えたらどうしようもなくなった。成長した自分を俯瞰している様ともとれるし、変わっていく二人の関係をどこかで俯瞰していながらどうやって求められない歯がゆさのようなものも感じる。
 人生はどうやっても進むしかない苦しさみたいなもの…つまりそれはこのバンドの変遷(来た道とこれからゆっくりと、しかしいずれ必ず訪れる終わり)を感じる。知能が上昇して人並み以上になったチャーリィもいずれは薬の効果が切れて従前以下の知能になってしまう。でもそれって薬がなくても要は「老い」っていう生きてりゃみんな受け入れていかなくはいけない事象を端的に表しているのと同じなんじゃないかな。もしかして、と思ったり。
 サビの後ろでなっているクリーントーンのスライド連発の降下ソロがとても美しくて素敵。
-「僕らはゆっくりと眠っていく とても長く」

第二章「踊る動物」

「第一夜」-(夏目漱石「夢十夜(第一夜)」)
 原作の第一夜をバットエンドと捉えるか純愛の形と捉えるか、誇張なく100年は交わされているであろう論争。
 百合の花って仏花なので個人的にはお迎えが来たというか、向こうの世で「貴方を受け入れる準備ができましたよ。また一緒になりましょう」というそういう合図なのかなと思っていて。その報せが男の前に咲いて接吻をしてきた百合の花(女房の現世の姿)なのかなと思ってます。
 クリーントーンのブリッジミュートのトコトコしたリフが何とも不思議な気持ちにさせられます。
 ヨルシカはこれまでのアルバムに共通して生まれ変わりの物語を挿し込んできていて。「最終電車で花火を見た彼女」、「月の上を一人で歩いている彼女」、「幽霊になった僕とバス停の君」、「絶えず僕の記憶に憩う百日紅の下の君」、「エルマとエイミー」、「音楽泥棒と桜が好きな細君」、「緑道で読書をする彼と犬になった私」、そして「画家と画商の彼女」。彼らの生まれ変わりの物語は既に百年経っているのかもしれない。
-「貴方は僕に笑います ずっと待っていましたと」

「第二夜」~「第十夜」はなんとまさかのインスト曲。これも前段のNFTの話に通じるんだと思うんですが。こちらは画集の作画を担当された加藤隆氏の絵が先に合って、そのイメージに沿って曲を作るという方法で制作されたようです。お気に入りは「第九夜」。

 明日も明後日も読み(聴き)たくなるような分かりやすい中毒性がある楽曲ばかりではないですが、ギターロックから激情を引いてそれ以外のアプローチを足した結果、より晩夏の深みが増したようなアルバム…もとい画集だと思います。時間をかけて耳に残っていつの間にかしみ込んでくるような。

 絵を観た直観、曲を聴いて浮かべた景色すべてあなたの、あなただけの唯一無二な思いが生活の糧になりますように。

…まとめ方が雑すぎて。何が昔取った杵柄よ。
読んでいただいてありがとうございました。どんなでも夏は幸せです。ではまた。



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