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錆びた虫ピン

翻訳の校正をしていて思い出したエピソードがある。

エジプトのエルマハッラ・エルクブラは、ナイルデルタの中央部にある同国繊維産業の聖地だ。その昔、同市の衣料繊維総合メーカーを訪問したときのことだ。会社幹部から次のような説明があった。読者はご存知のことと思うが、エジプトの特産品の一つはエジプト綿で、繊維一本一本の長さが極めて長い超長綿と呼ばれるその品質は世界最高峰である。

「最高級の原料が地元にあり、最新鋭の織機、ミシンを使って熟練工が作っているにも拘わらず、エジプトのワイシャツは売れませんでした。ある時、その原因を知りました。それは輸出先でパッケージングの際に刺す虫ピンが錆びて、新品のシャツを台無しにしてしまっていたのです。」こう言って、工場長はこのようなカイゼンに取り組んでいるので、現在業績は好調であると胸を張ったのだった。

この話を思い出したのは、もちろん、今、目の前にある翻訳案に錆びた虫ピンが刺さっていたからである。誰にでもはできない力作を仕上げているにも拘わらず、軽率な誤訳・不適切な文が、たった一か所なのだが作品全体の信ぴょう性を棄損している。

虫ピンを錆びないステンレスの針に変えたワイシャツは、その後本当に売れたのだろうか?実はその時から今まで、私はそのことが気にかかっている。失礼を許していただければ、エジプトのワイシャツが世界市場で高値取引される名声を得ているという話は聞いたことがない。

よい製品を作り、市場競争を勝ち抜くには、不断の努力とカイゼン、改良の連続が必要だ。厳しいことを言うようだが、錆びるピンを刺すような会社は、それ以前に改善の余地が山ほどあるにも拘わらず、そのほとんどのことに気がついていないのではないか。「虫ピンが悪かった」との主張を裏返せば、それ以外は改善の必要がないと高を括っているようにもとれる。よほど、心を入れ替えない限り、製品は売れないのではないか。その時私は、そんな風に思い、今もその考えに変わりはない。

錆びた虫ピンは氷山の一角。このことに翻訳者の卵の方も気が付いてくれればよいが、と思った瞬間、それは当社についてまさに当てはまると戦慄が走るのであった。

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