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「中臣鎌足?藤原鎌足?どっち?」という疑問を解決します

こんにちは。こんばんは。

学校の勉強や受験勉強、趣味で歴史の勉強をしていると、「何でこうなるの?」と疑問に思うことがよくあると思います。私は高校の時に日本史を選択し、受験では日本史の共通テストを解き、大学に入ってからも歴検一級の日本史にを受検するなど、長きに渡って日本史という科目と対峙してきましたが、勉強するなかで疑問は山のように積みあがっていきました。

今回は私が抱いた数ある疑問のなかの一つについて調べ、できるだけ簡潔にわかりやすく解説をできればと思います。暗記さえすればテストは乗り越えられるかもしれないけど、疑問に思ったことを追求してはじめて、日本史のおもしろさや奥深さに気付けると思います。

今回の疑問

日本史をちょっとでも勉強したことがあれば、中臣鎌足あるいは藤原鎌足について知っているでしょう。7世紀半ば、蘇我氏が権力を独占していた時、鎌足は中大兄皇子らと協力して蘇我氏の当主・蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)し、天皇を中心に据えた中央集権体制の成立に向けて様々な改革を主導しました(大化の改新)。

そんな鎌足ですが、教科書などを読むと、「中臣(藤原)鎌足」などのように、中臣氏、藤原氏の両方が併記されています。なぜこういう書かれ方がされているかと言うと、元々中臣という氏をもっていた鎌足が、死ぬ直前に藤原という姓を賜り、藤原鎌足に名前が変わったからです。

本記事では、なぜ中臣鎌足が藤原の氏を賜ったのか、そのことにどういう意味や重要性があったのかについて解説しようと思います。

上の名前は天皇から与えられる

現代の感覚では理解が難しいかもしれませんが、古代は天皇の支配下にある豪族には天皇から上の名前が「与えられる」形をとっていました。すなわち、領地や褒美をもらうのと同じように、天皇から名前を賜ることは豪族自身の地位や権力を示す重要なことだったのです。

なお、天皇には名字はありませんでした。もし天皇に名字があるとすれば、それは誰かが天皇に与えたということになり、天皇が国のトップであることと矛盾してしまうからです。この伝統は今にも継承され、今の天皇にも名字はありません。

氏と姓と苗字(名字)の違い

現代では氏も姓も苗字(名字)もほぼ同じ意味で使われていますが、古代には厳密に違いがありました。本題とずれてしまうので詳しくは話しませんが、この違いを分からないとこの後の話が理解しづらくなるので簡単に説明します。

まず「氏」とは何でしょうか?
氏とは蘇我や中臣のような、天皇から支配下にいる豪族に与えられる名前で、地名や職業・職能に由来します。氏は今の名字と同じで、血縁関係によって繋がりがある人物が名乗ることができます。
大きな特徴として、「蘇我馬子(そがのうまこ)」「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」のように上の名前と下の名前の間に「の」が入ることです。

次に「姓」です。
姓は豪族の地位や血筋を表すもので、飛鳥時代には大臣、大連、君、直などの姓が与えられました。例えば、蘇我馬子は大臣でした。ただし、ややこしいことに平安時代頃からは姓は氏を指すようになり、元々は氏である中臣や藤原も姓と呼ばれるようになります。

最後に「苗字(名字)」です。
これは姓や氏とは異なり、天皇から与えられた名前ではなく、各家が自分で名乗るもので、住んでいる地域や治めている地域などをそのまま名乗ることも少なくありません。
例えば、尼将軍の北条政子は北条という苗字(名字)を名乗っており、北条家の血筋は元々桓武平氏に繋がるため、本名は平政子(たいらのまさこ)です。後の時代でも、足利義満の足利は地名に由来する苗字(名字)で、本名は源義満(みなもとのよしみつ)です。
また、苗字(名字)は天皇から与えられていない名前なので、「ほうじょうの」「あしかがの」という風に、「の」を入れて呼ぶことはありません。

この三つの用語の違いを理解するのはかなり難しいと思いますので、完璧にわかる必要はありません。名前は一族の位、血筋、起源などを表しており、名前を天皇から賜ることがとても大きな意味を持っていたことを理解出来れば十分です。

中臣から藤原へ

名前の大切さがわかったところで、ようやく本題に戻りましょう。
なぜ、中臣鎌足は藤原という氏をもらったのか。
先ほども言った通り、名前というのは褒美の一種ですから、結論から言うと当時の天皇の天智天皇(中大兄皇子)は、蘇我氏の暗殺を共に企て、大化の改新に協力した鎌足を労う意味で名前を与えたと考えられます。藤原が鎌足に与えられたのは彼の死ぬ間際だったのですが、天智天皇が彼を見舞いに行った際には名前と一緒に大織冠という最高の位も与えています。

天智天皇と藤原鎌足の友情の深さが感じられるエピソードですが、なぜ藤原という氏を与えることが褒美になるのでしょうか?
言い方を変えれば、なぜ藤原は中臣よりもいい名前なのでしょうか?
正確な答えは分かりませんが、藤原というのは鎌足の生まれた地域、大和国高市郡藤原を指していると言われており、自身の生まれ故郷を氏として名乗れることに意味があったのかもしれません。ただし、これにについては諸説があり、藤原氏を賜ったのは鎌足の次男・不比等だという説もあるため、はっきり言って実際に何がどういう意図で行われたのかは分かりません。

おまけ:変な名前に変えさせられた人物

鎌足の場合は褒美として名前を変えさせられましたが、時には罰として酷い名前を天皇からもらう人物もいます。

その中で代表的な人物が和気清麻呂(わけのきよまろ)。

ご存知の方も多いかもしれませんが、奈良時代、当時の天皇の称徳天皇は道鏡というお坊さんを寵愛しており、ゆくゆくは天皇家とは何の血のつながりのない道鏡を天皇にしようと企んでいました。その時、九州の宇佐八幡から「道鏡を天皇にすると良い」という神のお告げがあったとの噂が広まりました。チャンスと見た称徳は真偽を確認するために和気清麻呂という人物を送り込みます。

しかし、清麻呂が確認しにいくと、この噂は嘘。この事実を天皇に伝えると天皇は激怒し、清麻呂に八つ当たりしてしまいます。この時、和気清麻呂は名前を変えさせられ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という可哀想な名前を名乗ることになってしまいます。また、脚の腱を切られ、大隅国に流された可哀想な穢麻呂ですが、その後呼び戻されて桓武天皇の平安京遷都を手伝ったりしています。

最後に

今回は中臣鎌足が藤原鎌足になった理由や背景について解説したつもりでしたが、どちらかというと古代の名前制度の解説がメインになってしまいました。
結局具体的に分からないことが多くて、諸説ありで片付けてしまうことの多い古代の歴史ですが、そのミステリアスな側面も醍醐味の一つです。
今後も歴史の様々な疑問についてできる限り解説を加えていければと思っているので、よろしくお願いします。

それでは、また。

参考文献


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