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大学研究室とは、なんだったのか?

2021年2月5日(金)の夜22時から、clubhouseでこのテーマについて、友人と話し合った。

ことの発端は、私が所属していた研究室が、師が退官した(別の大学に着任した)ことで、事実上、存在しなくなったからだ。

SNSやアプリ等でコミュニティは作れ、時々、恩師とOBOG数名がやりとりする程度で、それを積極的に活かした活動はまだない。

研究室が存在しなくなったことで、なくしてしまっていいものなのか、急な切断に対して、整理がついていないだけなのかは、わからない。

なくなった研究室に対して、「無関心」といえばドライだが、「前を向いて歩いてる人が多い」と受け取れば、ポジティブである。

卒業したあとのゼミと私

私が卒業した後も、研究室があったときは、恩師や後輩ら活躍している姿をSNS等で拝見するたびに誇らしかった。それは、年に1回観る箱根駅伝を応援してしまう感覚に近い。

その後、別の大学に着任された後も、恩師は、時の人のように目まぐるしく活躍されている。恩師は変わらないのに、その大学に思い入れがないため、近寄る理由がなく、近くて遠く、近づけないもどかしさがある。これは、女々しさなのか。まるで亡霊である。

他大学の研究室のその後

今回のclubhouseでは、同年代で、「卒業後も研究室がある人」、「研究室がなくなった人」が参加してくれた。研究室がある人は、①大御所建築家の研究室、②若手建築家の研究室の場合で少し異なることもわかった。

問1|なくなったゼミを今でも想う気持ちは、どこから来るのか。

憧れる存在としての恩師(建築家)、ライバルとしての恩師(建築家)

大御所建築家の研究室に所属していた方は、脈絡と積み上げられた歴史の中に身を置くように、ある種、俗人的である。また、研究テーマの大きな方向性も決まっており、その中で思考を深める。師や論文テーマ、卒業しても活躍するOBOGの姿に憧れて所属する人がいる。

若手建築家の研究室の場合は、歴史が浅く、卒業生もまだ若い。研究室とは何か、この研究室で扱いたいテーマを探求するのか、師と模索しながらゆらゆらと、たくさんの仮説を立てていた。

ある意味、師と学生の議論が多く、社会的な上下関係はありつつも、立場はフラットに、時にはライバルのように意見を交わしていた。私の研究室は、こちらに近いと思っていた。

しかし、本題の「なくなったゼミを想う気持ちはどこから来るのか?」という問いに対して、①ゼミがなくなり、②物理的に恩師から離れた土地や所属に身を置きながら、ライバルへの対抗心といえるのかは、このトークが終わってからも疑問が残った。

振り返って整理すると、研究室があった時となくなった後の一番大きな変化は、自分が直接知る恩師よりも、圧倒的に他者から間接的に知る恩師の姿(情報量)が増えたことだ。

そうした状況下に、もしかしたら憧れの存在や、かつてのゼミ活動を懐かしむ想いに変わっていたのかもしれないと思った。

問2|他大学に着任した後、そのゼミ生とのつながりはあるのか。

今回のclubhouseでの対話で、他大学に着任したあとのゼミ生同士のつながりや、共同企画などはあるのかと言った質問があった。

私が覚えている限りは、そういった働きかけはなかったので、それは恩師なりの双方への配慮であり、切り分けたいというスタンスなのだと悟っていた。

ただ、所属時から開催していた大学合同ゼミ(通称、GDZ)はとても良かった。恩師と同年代で研究室を持っている方同士が晴海に集まって議論した。お酒の回った夜に、他大学の卒業生同士のクロストークは、面白かった。

問3|所属したゼミ生だからわかる、「共通言語」や「共通体験」はあるか。

全員に共通する「共通言語」や「共通体験」は恐らくなく、所属した年代(1期生~7期生)で、それぞれ異なると思う。ある意味、共通しているのは、”大学在籍時に恩師と過ごした”こと。

共通言語|毎年、恩師を中心としてテーマを設定して、研究を進めるスタイルであるため、恩師を介して全体像を知ることはできるが、それぞれの研究テーマだけを見るとバラバラに見えてしまうためかもしれない。

共通体験|初期(1期生~2期生)なら、展示会と書籍出版のリサーチ活動が多かった。展示会設営では、恩師がキュレーターを務める展示会で使用する展示作品を置くための展示台(白い直方体)を真夏に、現場施工したのは「共通体験」などである。展示会やトークイベントを通じて、様々な建築家やアーティストに会えるのは、大きな財産だった。

今回参加した方の研究室は、先生が決めた3つの大テーマ(ジャンル)があり、修士2年生が修士1年生以下を指導する方法をとっていた。そのため、3つの大テーマごとに、世代を超えた共通言語があったと思う。

<コラム1>私の記憶に残る、ゼミでの体験

個人的な記憶に残る体験としては、「超都市からの建築家たち」(TEAM ROUNDABOUT)CITY2.0–WEB世代の都市進化論は思いで深いイベントだった。

全世代に共通していた企画としては、毎年開催した「ゼミ旅行」や「ゼミ合宿」だと思う。

セミ旅行は、その年の研究テーマに合わせて、目的地を決めて現地を訪れた。初期は、品川・天王洲、青森市や神戸市などを訪れた。卒業後、後輩たちは、沖縄や東北を訪れていた。

ゼミ合宿は、千葉県まで行き、昼間は建築を見学し、フットサルをしたり、朝の海辺をジョギングしたり、夜の海で語らった。

私が所属していた頃は20名程度だったが、卒業後はゼミ生が30~40名近くになることもあり、行ける場所、行動の仕方も変化したと思う。

個人的には、卒業して仙台市に住んでいたときに、恩師のゼミ旅行で東北地方に来ていたゼミ生(後輩)に合流できたときは、とても嬉しかった。

<コラム2>卒業時の言葉「守・破・離」

大学を卒業するときに、恩師がゼミ生にあてた言葉は、「守・破・離」である。恩師のゼミで教えを守り「型」を学び、卒業して自ら型を破り、いずれ恩師を超えて(離れ)成長していくこと。親と子の関係に似ている。

<コラム3>私の大学にいた建築家とその卒業生

ふと、私の恩師と同じように、大学に非常勤講師で一時期居て、その後、別の大学に着任して活躍された有名建築家の方を思い出した。

具体的には、原広司氏、布野修司氏、山本理顕氏などである。たまたま在学中に本校のキャンパス開設50周年記念シンポジウムが開催された。基調講演で原先生、当時の原研究室1期生だった武部寛氏、布野修司さんが来られた。

原研1期生で卒業された武部さんは、当時、所属していた頃、原先生のお話を全部理解できたとは思えなかったが、とても充実していたと話し、卒業後、日本都市設計㈱の代表取締役社長になられ、退職された。

原先生は、「研究活動をつづけた私の退職金よりも、社会で活躍した武部さんの退職金が多い。いったい、どっちの道が幸せなのか」とジョークを言っていたことが印象的だった。

また、布野修司先生が居られた時の最後のゼミ生が、講師として設計製図を教えていた。

以前、設計課題のゲストで山本理顕さんが来られたときも、着任当時、大学の裏手にあった喫茶店で議論した日々が懐かしいと語っていた。

まとめ|所属は、通過点へ

他の大学の卒業生の話や母校のOBのお話を思い出し、所属を卒業したことで、所属は「通過点(過去)」になり、ゆるやかなコミュニティは維持しつつも、個々人が何をしたのかが大事だと改めて思った。

察するに、他大学の研究室があり、自身の事務所を経営する恩師にとって、集合の合図をかけるには、意味はあるが、理由には乏しいのかもしれないと思った。

卒業後に集まれるコミュニティの求心力は、恩師に頼らず、卒業生自身がその活躍をもって、自ら切り開いていくものだと思った。

結論(仮)

①なくなったゼミのコミュニティは、SNS等でいつでも声掛けできるようにする。

かつて研究室があった時のような、全員参加型の一体感や濃密な時間を過ごしたウェットな関係性を今の状態で作ることは難しい。

しかし、そのコミュニティは、生み出そうと思って生み出せる関係性ではないので、なくしてしまうのは大きな損失である。

その歴史は共有しつつ、いつでも参加できる小規模多頻度の定期的な企画を小さく続けていくことで、ゆるやかな関係性を維持していく。

②卒業生が活躍し、卒業生の自主企画などに恩師や卒業生が参加する。

卒業生の中から、博士課程で大学に戻ったり、大学の研究室を持つようになる人がいれば、そこに新しいコミュニティが生まれ、関わるきっかけができる。社会人であれば、自身の作品の公開や業務実績などを報告を通じて活躍を実感できる。

③重々しい企画は避け、小規模多頻度の企画を定期的に開催する。

これは仮案だが、超線形設計プロセス論を学んだ者として、小さな001案を作り、課題を1つ1つ修正しながら、構築していきたい。

<コラム4>読むこと、書くこと、つくること。

大学時代に恩師の恩師にあたる人の言葉について、聞いたことがある。大学院の時にたくさん本を読んだことで、物事を多面的に、ときどき深く考えるようになった。

 また、イベントに参加したり、気になったことを記録に残す癖は、社会に出てから議事録を作るスピードに生かされている。打ち合わせの時は、ノートに箇条書きし、今回もこうして記事に書きながら、頭の中を整理するようになった。

まずは、卒業生の言葉を1つ1つ積み上げていけるような媒体をつくることからはじめて行きたいと思う。







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