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宇宙人や恐竜なんていて当たり前

以前、デザイン系のサイトを漁っていて、ふと気になるコピーが目に入った。https://partner-web.jp/article/?id=1027

「日本の美大生なんて死んだほうがいい」映画監督 木村太一氏のインタビュー記事だった。俺に読めとでも言ってくるかのようなコピーにつられて、早速そのサイトへ飛んだ。きっとコピーは結構盛られていて、そこまで過激な内容ではないだろう。だとしても、美大生のためになるような記事でもあるのだろうと思った次第だった。

内容は結構面白く、ジュラシックパークを見て、映画に感動した木村氏が12歳の時に単身渡英し、そこでの経験から今の自分ができた、という話だ。「日本の美大生なんて死んだほうがいい」いうコピーは、「ハングリーなイングランドの美大生に比べ、日本人は、小さなコミュニティでみんなと同じようなものばっか作っていて、アンクリエイティブだ。」ということだった。

記事を読んで、確かに1年次の自分は、目立つのがちょっと嫌で、安全牌を探してたのかもしれない。きっとみんなも同じなのだろう。美大であるのも関わらず、積極的なクリエイションをあまり良しとしない日本人の異常な意識を再確認させてくれた。しかし、この記事の中で、一つ違和感を覚えたところがある。

小学生の頃にジュラシックパークを見たとするならば、ジュラシックパークの上映年は1993年なので、木村太一氏は現在40歳ほどであろうか。40歳になっても小学校の映画の記憶が残っているのであれば、それきっと相当な衝撃であったに違いない。そして、多くの40歳近い人はこれに共感するだろう。

私は、ジュラシックパークに全く衝撃を受けなかった。

きっと僕が衝撃を受けなかった理由は一つ、既に恐竜が存在していたからだ。私が生まれたのは1998年、ジュラシックパークが上映された5年後だ。つまり、私は恐竜が誕生した1993年よりも後に生まれたのだ。

僕が生まれた頃には、レプリカントはできていたし、少年は宇宙人とコミュニケーションを取っていたし、ロビン・ウィリアムズが人生の美しさを説いていたし、宇宙では何シリーズも戦争をしていたし、フォレスト・ガンプはエビ漁で大成功を収めていた。これらは僕に取って全て、既にあった事実なのだ。もちろん衝撃など受けない。存在して当たり前だからだ。

映画が生まれた年以前と以後では、受ける印象が全くと言っていいほど違う。このジュラシックパークがいい例だろう。きっと映画だけでなく、多くのものがそうであろう。これから生まれてくる子供は、パソコンの液晶や、テレビは極薄が当たり前なのだろう。フロッピーディスクなどを知る由もなく、携帯に数字を打つボタンがあったのを知らず、電話アプリのアイコンが一体なんなのかも知らなくなってしまうだろう

もちろん、恐竜を映画の中に創り出し、まるで本当にそこにいるかのような映像技術や、演技、最新テクノロジーには感動は覚える。しかし、やはりないものが現れるという衝撃はない。むしろ、なんでも作り出せてしまうこのご時世では、既にそのような衝撃を受けることは難しいのかもしれない。きっとこの時代では、作り出せないものはないのかもしれない。

年が離れるだけで、受ける感情が全く違う。きっとデザインや、マーケティングでも役立つことになるだろう。些細な違和感だったが、得られたものは大きかったかもしれない。

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