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ジョジョ5部とオイディプス王 運命と人間讃歌

オイディプス王という本を読んだので、今回はジョジョ5部の運命論と絡めて書こうと思います。

運命と眠れる奴隷

まず、ジョジョ5部にはエピローグ「眠れる奴隷」という話があります。「眠れる奴隷」について荒木飛呂彦先生がインタビューに答えています。

荒木 そうですね。テーマをより強く伝えるために、もう一回書こうって決めてました。結果、物語がぐっと締まった感じになってよかったなと思います。今あらためて考えると『ジョジョ』の25年間の歴史の中でも最も印象的なエピソードかもしれませんね。『ジョジョ』シリーズの神髄が、あそこには表れていると思います。jojomenon, p20(2012-12).

荒木先生が、『神髄』とまで言う「眠れる奴隷について、まずは考えていきます。


ジョジョ5部、特にテーマを体現する「眠れる奴隷」の中では「運命」が重要なテーマになっています。

荒木先生は文庫版あとがきの中で

「主人公は「運命」や「宿命」を変えようとはせず、彼らのおかれた状況の中で「正しい心」を捨てないことをえらんだのです。」

と述べています。

つまり、ジョジョ5部において運命は変わっていない、変えようとはしていない、ということです。

ブチャラティは

「運命とは『眠れる奴隷』だ……オレたちはそれを解き放つことができた……」

と言っており、この描写が理由で「運命を変えることができた」と認識する方もいるのですが、運命は変わっていない、むしろ結果的には悪化している、ということが作中でも描かれています。

作中では、スコリッピというスタンド使いがでてきます。

スコリッピのスタンドは、花屋の娘の安楽死により、父親への臓器移植ができたことから「安楽死させ、いい出来事をもたらす」スタンドだと考えられます。つまりスコリッピは、ブチャラティを死なせることで、良い運命に変えに来たのです。

それに抗った結果、アバッキオとナランチャの姿が浮かび上がり、二人が死亡することが示唆されます。

つまり、繰り返しになりますが、ジョジョ5部ではインタビューや作中の描写からも「運命は変わっていない」ことがわかります。

運命とオイディプス王

オイディプス王のあらすじをざっと書くと、

テバイという国の王様、ライオスがあるとき「自分がやがて息子に殺され、その息子と自分の妻が交わって子をなす」という神からのお告げを受けます。ライオスは運命を回避するために子を殺すように従者に指示しますが、従者に情けをかけられ、子どもは山に捨てられました。そのあと、他の国の王夫妻に拾われます。
その子ども、オイディプスは成長し、あるとき、「自分がやがて父を殺し、母と交わって子をなす」という神のお告げを受けます。拾ってくれた王夫妻を実の親だと思っているオイディプスは、国から去りました。その道中、怪物退治に出かけていたライオスを殺してしまいます。その後、怪物を倒したオイディプスがテバイの国王になり、元ライオスの妻を娶ります。
ここでお告げが成就されました。
その後、いろいろあって全てを知り、妻は自殺して、オイディプスは、自分の目を潰し、宮殿を去りました。

という話です。

古田徹也さんの「不道徳的倫理学講義−人生にとって運とは何か」という本では、運について考察されており、その中でオイディプス王に触れられています。

「『オイディプス王』では、その全篇にわたって、ひとつの行為がしばしば両義性を持って立ち現れている。運命の回避を意味するはずの行為が、むしろ運命の成就を意味していたり、オイディプスが自らの強さや聡明さを誇る行為が、かえってその弱さや愚かさを示していたりする、という具合である。」古田徹也『不道徳的倫理学講義−人生にとって運とは何か』loc.855(喜入冬子,2019) (kindle)

つまり、運命を変えようと行動することがかえって運命を強化していたり、オイディプスが強さや賢さを誇ると、でもコイツは運命を変えられないんだよな、と思うと情けなく映るといったことです。

これはブチャラティにも言えることだと、わたしは思っています。


運命を変えずに人間らしく生きること

例えば、ブチャラティが「これでいい」と言ってるシーンは、ある視点では感動を呼びますが、「でも結局運命通りである」という視点で見ると情けなく見える。オイディプス王のように、運命に翻弄される姿に両義性があります。

ジョジョ5部の多くの読者は、納得できる感動の方をとりたいため、「眠れる奴隷」に関しては「よくわからないけど、解き放つことができたならよかった」と思い、運命に抗っていないという視点を積極的に捨てます。運命には抗っていないと荒木先生も仰っているのに。

しかし、ジョジョ5部は、運命に抗わない中で、生きた意志や正義の心を見せたからこそ、人間讃歌として成立している物語だと思っています。

これは先程の『不道徳的倫理学講義』の中のオイディプスの話でも同じで、

「人間は運命にどうしても翻弄されるが、ただ成り行きに従って流れるのではなく、ときに気高く賢い仕方で、ときに弱く馬鹿げた仕方で、もがきながら対処し続けようとするオイディプスの姿に、我々はまさに人間らしさ、人間臭さを見て取るだろう。」古田徹也『不道徳的倫理学講義−人生にとって運とは何か』loc.855(喜入冬子,2019) (kindle)

と述べられています。まさにその通りだと思います。

たとえ運命が決まっていたとしても、その中で正義の心を捨てずに生きられたら、なんと人間として美しいのだろうと思います。

眠れる奴隷を解き放つとは?

では、ブチャラティの言う「『眠れる奴隷』を解き放つことができた」とは何かと言うと、やはり「自分の意志で行動した」ということではないでしょうか。

古田徹也さんは、オイディプス王が最後に自らの目を刺し、目を抉ったのは誰でもないこの自分だと宣言するところで、こう述べています。

「しかし、ここで重要だと思われるのは、その愚かな行為が、少なくとも彼自身にとっては、運命の縛りから−たとえわずかでも、束の間であっても−自らを解き放つものだったということである。」古田徹也『不道徳的倫理学講義−人生にとって運とは何か』loc.841(喜入冬子,2019) (kindle)

たとえ愚かな行為だとしても、運命は変わらないとしても、運命の中で自分の意志で行動すると言うことが、自分自身の中では、自らを解き放つものになるのでしょう。

つまり、ジョジョ5部とオイディプス王は、とても美しい人間讃歌の物語なのです。


では、以上です。
スコリッピのスタンドについて考え、運命の奴隷についてのヒントをくれた斉木景さん、ここまで読んでくださった方たちへ、ありがとうございました。


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