birakocha:パッシブ→‥‥‥

我々は時間の中に存在している。
その時間が存在するかどうかの議論については長く問いただされて来たが、
そもそも存在というものの定義がまず曖昧ではあった。

我々一人1人が体験者として自覚的でありすぎるが故に
それぞれの存在を発生させて来たのはいうまでも無い。

かく言う時間の中で発露するに至った思考や思想の発生はやはり自覚的という自覚の発生の成長段階において
増殖していく枝葉のように伸びて来たものだろう。

例えば自意識とも呼べる樹木があったとして、
現段階ではその木々はある段階までは発育してしまっているのだが、よくよく枝葉を増やした部分と未だ若葉の様な青臭さ残る成長段階にある枝葉。

どのように育ち、最終的にどのような形を取るかは多様性を保持させたままの状態なのだろうが、
まだそれが種子だった時代、いわゆる自覚が発露する以前では自覚性とも呼べるそもそものそれそのものは想起の中に未だ押し込められている状態だったと言える。

元来自覚自体は体験者が顕在的に意図するものであるが
潜在的に感覚させられる自覚については自覚性を伴ってる状態に近いものであり、想起の中から生み出された事象の一つでもある。

結局は想起そのものが自覚の苗床だったとも呼べる事にもなるが、果たして想起は何処から浮かび上がった空間なのだろうかと思うわけだ。

性質として振り分けるならば
自覚性というものは時間的に存在し、
想起は空間を指すものだと印象される

ここで一つ言った事を整理しよう。
想起はそもそも空間に存在するわけでは無い
言うならば空間に想起が芽生えるのではなく、
想起とはそもそも空間自体を指すと言うことに近い。

思えばこれまで行われてきたであろう様々たる哲学的思考は、やはり自覚性の中に芽生えてきたのは前提として否定する事は不可能だろう。
つまりは全ての哲学的議題の生みの親はやはり自覚性から顕在化していった自覚自体がそうさせてきたわけだ。

歴史的な尺度で人間における自覚性のこれまでを振り返るならば、それは時間的概念を消費し続ける事により、
存在する物を増やしていったと思われる。
いやより詳しく言うならば、

時間的概念の消費と並行して結果的に増殖したものが存在という概念であり。
それは結果的には存在自体が発露し続ける状態をとり続けたという状態に近い

並行してと言ったが、
不気味な事に時間と存在の経緯又は因果関係には実は関連性は無いと考えられる
完全に別の空間からの発生であり、その仲介人として存在したのが人間であり、正確にはその所在は意識内にあったとも言える。

『人間の意識とも呼べる  想起の空間内に  潜在的に発生した  自覚性が時間を消費し続けながら  発露させ続けたあらゆる存在達』を
人間が認識し利用するにはある段階まで派生させなければ人は使用することができない。
それが思考であり、逆に言えば思考という段階にまで至って初めて存在した存在自体に気付くという問題を抱えている事になる。
思考はいわば理解する為、納得する為、行動する為、あらゆる行動原理に押し込める為、枠組みに押し込んだのがいわゆる思考であり
結局は人間は思考という段階にまで成長させなければ発露した概念を自覚的に取り扱うことが不可能であり、
またその癖、それがなければ生きていくことすら出来ないのが人間なのかもしれない。
いわば人間は気づかないだけで誰しもがその固有の人間的哲学を持ってのみ生を消費し続けることが出来るとも言えるのだと思う。

ここでいう人間的哲学とは、一部が所持するような洗練された思想の事のみをいうわけでは無い、
善人であろうと悪人であろうと、それぞれが判断し答えを出す、思考のパターン、いわゆる全てにおいての人間的自覚性の中に発生しうるもので、生存や行動を支配する思考の事で、それはやはりどこか潜在的であり、
それ故に潜在的自覚性の元に全てが消費されていく。

通常その自覚性の外に出る事は人間は不可能である、
そして自覚性の外は想起的空間が広がる、
それはやはり自覚性が想起の苗床として生まれているという前提によるものであるが、
私はそれは疑いようのない事実なのだと思う。
そして、そこには人間的哲学の世界とは全く違う世界が広がっている。
いわば、時間と存在から解き放たれた空間
そもそもその二つの関係性が因果的に見えているという感覚自体が思い過ごしなのだが、
そこから解き放たれた空間では素直にそれぞれが独立していることが感覚されるだろう。
人間的哲学性から離れたものは想起的に発生しうるものであり、更に言うなら発生していたものと言っても過言ではない。
そしてそれは、やはり空間的である事は間違いない。
つまりは人間的思考の意志から離れたところにあるもの自体が元来既に存在していた想起的性質の空間である。

纏めるならば
人間的自覚性は時間の消費と存在の増殖によりやはり育まれたものであり、
もしその人間的自覚性自体を、より超越的な何かとして発達させる為の手法が存在するとしたなら、
それは時間の消費からの解放と
存在の増殖の停止から放棄に至るまでの経緯との経緯を必要とする。
そしてそれは同時に想起における空間生成を意味する。

人間的思考において取り違えそうになる事実が、
一つあるとするなら、
以上を踏まえた時、ある可能性が導き出される事は言うまでもない。

想起という空間は自覚性の根を生やす、
土壌に自覚性が生まれるという事は
やはりそれは潜在的自覚性であり、
根から表出した自覚が存在を認識して初めて繰り広げられるような思考そのものが想起を生み出すものではない。
やはりそもそも想起なる空間が存在する、
人的でく、更なる広がりを持ったその空間に芽生えたのが、我々の意識というものである。
つまりは
思考の名の下に想起などは起きてなかったという事なのだ。



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