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東日本大震災、3/11の我が家のこと

2011年当時わたしは、静岡県三島市の会社に勤めており、3月11日の震災発生時は社屋の8階のオフィスにいました。免震の建物が大きく円を描くように回る、揺れるというより回る感覚で、異様な空間の歪みは即座に地震と認識しがたいものでした。いつものように地震情報を検索すると、東北で震度7。

震度7?
咄嗟にとんでもないことになった、と思いました。

その日は管理職研修で、どの部署にも課長以上の管理職がいませんでした。各部署のリーダークラスが三々五々集まって、有期社員を早退させるかどうか話し初めていました。その様子を横目で見ながら、誰も研修から戻って来ないことに内心苛立っていました。

会社の主力事業は通信教育で、最初の配属がコンタクトセンターだったわたしは、地震に限らず台風なり大雪なり、どこで災害が起こっても必ず現地に顧客がいるという感覚をもって働いていました。20代も残り数ヶ月という時期で、そういうことにいちいち目くじらを立てる熱量がありました。

わたしがいたのは新規事業の弱小部署で、全社的に忙しい3月でも、申し訳ないほど暇を持て余していました。コアタイム15時を過ぎて、急ぎの仕事がなければ帰っても構わない。部署に一人だけの先輩に「東北に帰省している母が心配なので、帰って連絡を取りたい」と伝えて早上がりすることにした。心配性の先輩は、いいよいいよ、課長には言っておくからと快く言付かってくれました。

そうです。ちょうどあの震災の日、青森の祖父の入院先に、母がお世話に帰っていました。全員が関東在住の母たち三人兄弟が、交替で帰省していたのです。母はその当時、携帯電話を持っていませんでしたし、東北の地震で電話が繋がらないことは日常茶飯事だったので、まずは父、そして叔父叔母たちと無事を確認し合いました。

田舎の家は南部内陸の山間で、津波の心配はありません。二人の叔父とそれぞれの妻である叔母たちも皆同じ町の生まれ。青森の田舎には、真ん中の叔父が代表して連絡を取り続けてくれることに決まりました。

母は小学生の頃に三陸沖地震を経験していて「机の下に潜ると、教室の壁と床の間が開いたり閉まったりして、下のクラスの教室が見えた」とよく話していました。末っ子の叔父はまだ幼稚園で、おやつを買いに行った商店にお金を置いて逃げ帰ってきたということでした。

東京の実家でひとり留守番の父は、長崎生まれ。楽観的な性格のわりに、この時ばかりは不安がっていました。「何かあれば連絡が来るんだから、連絡が来ないうちは心配しても仕方ないよ」と言い含め、わたしも静岡の家でひとり、NHKの報道映像を見続けていました。

「とんでもないことになった」。その現実がつまびらかになるに伴って、なぜか現実味が褪せていくのが不思議でなりませんでした。冷静というのか、感情が追いつかないというのか、とにかく経験したことのない静寂の中にいました。実の母がいま被災地にいて、安否がわからないままだというのに。結局その日のうちは、青森の田舎とは連絡がつきませんでした。

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