夢の中

夢の中


 はじめて海外の医療を受けれない人たちの為に医者になろうと決意したのが19歳の時。

 とてもとても医学部を受けれるような成績でもなかったが、あまりの成績の悪さに多分、医学部と自分との距離感も測れていなかったのだろう。しかも文系だったし。

 簡単に医者になることを決めて迂闊にも公言してしまった。

 そして、そんな大それた目的など、恥ずかしくて誰にも本心は明かすことができず、適当な理由を並べて医学部を目指したことを伝えたりした。

 幸いにというか、結果的に私は医者になれて今、ここにいる。

 約40年前には夢であったあの場所に。


 私たちの世代の平均寿命は80歳台で、多少、若い頃から無理をしてきたので80歳辺りで寿命が尽きるとすると、この夢もそろそろ後半に差し掛かり、残り3分の1を程度となってしまった。

 

 これからどんなエンディングにするかを本気で考えておかねばならないと自覚しはじめた。

 

 ふと懐かしい曲を聞くことがある。

その曲を聞くと、当時の自分の状況も感情もなんとなくよみがえってくる。

 友人関係や恋愛で疲れたり、動揺したり、傷ついたりして右往左往していた若き日の自分をそっと遠くから眺めているようで、そんな弱々しかった過去の自分が愛おしくて抱きしめてあげたくなる。


 初めて人を縫合した日の事はよく覚えている。二人目からは忘れてしまったが。今では当たり前に毎日行う縫合も、はじまりは確かに存在した。


 大学に入る前の私の中には颯爽とした外科医として腕を振るう自分のイメージなど微塵もなかったが、患者たちに一生懸命に寄添おうとする自分のイメージは確実に存在していた。


 ミャンマーにはじめて訪れた1995年。首都ヤンゴンの空は随分と青かった。若い頃に私は確かに人とは違う人生を歩んでいけているのだ、少しばかり幸せな気分になった。


 37歳で自分で組織をつくると決意し、ふと明け方目覚めて組織の名前をジャパンハートと決めた日。その夜の月のあかりは随分と明るかった。


 ジャパンハートをはじめてお金が尽きそうになり、人も離れ、心が孤立無援になったときでもこの活動をやめようとは一度も思わなかった。

 この活動をやめたいと思ったのは、いつも患者が死んだときだけだった。


 ミャンマーに来て貧困層に医療をしていても本当に多くのミャンマー人医師たちが私の活動を何故か阻止しようと考えられないほど邪魔をしてきた。彼らにとっては私という存在は自分たちの権威を脅かす目の上のタンコブだったのだろう。そんな私をいつも助けてくれた心ある人たちがいた。それもやはりミャンマー人だった。


 私は今、夢の中にいる。

だから、多分、全て私の望むエンディングに導くために必要なものは、私の意識の中に存在しているはずだろう。

 よくできた妻も私よりも遥かに才能に恵まれた二人の息子たちも人生に配置してみた。

 たくさんの信頼できる仲間や友人たち、出来すぎた後進たちもたくさん配置してみた。

ミャンマースタッフと


カンボジアスタッフとジャパンハート子どもセンターにて

 あとはたくさんの子どもたちが病気から解放され家族と共に満面の笑みで幸せそうにしているシーンもたくさん配置しておこう。



 
私のことを世界の誰もが忘れても私と私の仲間が作ったシステムや施設が、当たり前にその国の中に溶け込み人々によって利用し尽くされている未来にしておこう。

 

  

 今は戦闘地域のミャンマー中部にいて高台から遠く地平線を眺めている。自分は一体、どこにいるのだろう?ふと思う。

 こんなに美しい景色はきっと夢の中にいるのかもしれない。

 地平線と空は地の果て繋がる。

 今の日本人たちには理解できないかもしれないが生と死もそのように繋がっている。

  

 私は本当は何か大きな事故にあい、昏睡状態で病院のベッドの上にいて眠り続けているのかもしれない。

 もしかしたらこの40年近い時間の出来事は全て夢まぼろしなのかもしれない。


 人の人生とはそんなものかもしれない。


 そして、私はあと20年分ほど眠り夢を見続ける。


 残り20年の夢。


 まだ、私は夢の中にいる。


 

 

 

 

 

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