ピーター

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ピーター

いろんな日本語の文章を英語に訳しているオーストラリア人作詞作曲家。訳した文章をhttps://japanoscope.com/language/に載せています。

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世界の「好き好き大好き」:戸川純の歌の英訳と背景

戸川純の好き好き大好きの歌詞を英語に訳して演奏と曲の解説の動画を作りました。https://japanoscope.com/jun-togawa-suki-suki-daisuki/ その解説の部分を日本語に訳して下記の載せます。 戸川純はかつて インタビューで「あなたはアイドルそれともアーティストですか」と聞かれたことがあります。そして彼女は「両方と言ったら悪いかしら?」と答えました。 彼女は本当にそういう2つの世界にまたがることができるアーティストだと思います。 おそらく、 レディー・ガガとかビョークとか、戸川純さんと同じく日本人の きゃりーぱみゅぱみゅ、といった感じの人かもしれません。さらに彼女は全く異なるイメージになりきる能力 を持っているところはマドンナ、あるいは デヴィッド・ボウイと似ています。そして、彼女の歌い方にはひとフレーズごとにちょっとした音の震えるようなビブラートがあり、どこかジョニー・ロッテンを彷彿させます。また、彼女の振る舞いには、どこかパンク的な要素がある気がします。他の著名なアーティストと同様に彼女は様々な異質な要素を寄せ集めて、新しく絶妙で彼女独自のものを作り出します。 80年代戸川純とマスコミ 80年代初頭から芸能界の表舞台だけでなく、マスコミから離れた場所でも、彼女は女優として、歌手として、クリエイターとして 美的世界の創造者として、また時には破壊者として活動を続けてきました。 面白いことに、彼女が芸能活動を始めて間もないころ主にトイレのコマーシャルで世間一般に知られるようになりました。彼女は当時、TOTOの「顔」のような存在となっていました。TOTOは当時、革新的なトイレ「ウォッシュレット」を販売開始したところでした。これは、お尻を洗う小さなノズルが出てきて、水を吹き出すというものです。「ビデの自動化」といったようなものです。コマーシャルに出てくる彼女はとても印象的でした。そして、必ずと言ってもいいほど彼女が出演するテレビのトークショーの殆どの 司会者はそのCMの広告のキャッチコピーについて言及しました。 「オシリだって洗ってほしい。」 英語訳すとEven your bum wants to be washedという意味です。 駆け出しの若いアーティストたちにとって少し恥ずかしいものだったに違いありません。(しかし、この広告のフレーズは確かに説得力がありました。手にウンチが付いていたら自分の手で、紙を持ってきて拭いただけで終わることはないでしょう。 洗いますよね。 じゃあ、お尻も同じように洗えばいいのでは、と。) しかし、当時の彼女が歌手として出演しているテレビ番組では、 アイドルのような格好で出演していました。 ところがそれは彼女がわざとそれを演じていたようにも見えます。パロディとして演じているのと、本気でやっているのと、二つが交わるところから少しずれているところで活動していました。 おそらく当時の世間一般の人々には、彼女のこのような感覚が上手く掴めなかったのでは、と思われます。 彼女とどう付き合えばいいか、どこに分類すればいいかよく分からなかったかもしれません。 ミュージシャンとしては、彼女は独創的な東京のカフェ「ナイロン100 %」にてデビューしました。「蘇州夜曲」という1940年代の日本の帝国的な歌謡曲を演奏しているところをミュージシャンの上野耕路さんに見つけられたのです。 それは「シナの夜」という映画の曲でした。英題は「China Nights」という映画。1940年の戦時の中国が舞台となっています。この曲は、普通なら若い新鋭ミュージシャンが歌うような曲ではありません。 それで上野さんの目に留まったのです。そして、二人がゲルニカというバンドを始め引き続き同じような音楽をやることになりました。 戦前の日本のポピュラー音楽のような音楽をやっていました。見た目もとても印象的で。当時の非常に真面目なミュージシャンに見えました。皮肉的で無表情だったからです。どことなく暗い感じがしました。 しかし、彼らはそれを未来的な意味でやっていたのです。電子音楽的な要素もあり、彼らの解釈で皮肉的に演奏していたのです。そのような美意識は、彼女のミュージシャンとしてのキャリアの中で一貫して多くの戸川さんの作品に見られます。 懐古的な未来主義とでもいうのでしょうか。 世界の好き好き大好き 「好き好き大好き」は彼女の名義で出したセカンドアルバムのタイトル曲です。「戸川純」として。もしゲルニカやヤプーズも含めるなら彼女の5枚目のアルバム、ということになります。彼女は、ヤプーズというバンドの一員としても活動していました。 これらのソロとバンドの間に一線を画しにくい、 ジュン・トガワとヤプーズ。時には、それが 戸川純とヤプーズ、そして時にはただのヤプーズ、そして時には 「純」、「戸川純」。いずれにしても、これは完全にソロ名義でのセカンドアルバムです。 好き好き大好きミーム この曲は おそらく彼女の最も世界で著名な曲となっています。この曲がミームになった、というのも一理あります。発売されてから30年以上経っているのに。様々な人々は様々なアニメのアニメーションを のイメージをつけたりしています。ちびっこキャラのような、かわいいとグロテスクの間のようなキャラ。 いわゆる「ヤンデレ」ですね。 好き好き大好きと「ヤンデレ」 この曲は、いわゆるヤンデレの一例になると思います。これは アニメでよく見かける概念です。これは、「病気」や「苦しみ」を意味する「病んでいる」という言葉を組み合わせた造語です。そして「デレデレ」という言葉。「デレデレ」とは誰かを大げさに褒めたり、媚びたりする意味があります。あるいは、愛に打たれること。 それは文字通り直訳すれば「Lovesick」という言葉に近いものがあります。しかし、そのニュアンスはかなり違います。この言葉は暗い意味合いを持ち、ほとんどある種の、ストーカー的な意味合いが含まれています。少し暴力的であったり、サディスティックであったりちょっと病んだ感じで夢中になっているような、ちょっと病的なくらいに夢中になること、を指します。しかし「ヤンデレ」という言葉は、戸川純が活動していた。当時は存在していませんでした。 歌詞の中に出てくる描写には、誰かが誰かのことに夢中になって、人に暴力を振るうようになり、その人に暴力をふるってほしくなってしまう、というところがあります。 この作品は日本の現代文化、特にアニメにおける「ヤンデレ」の概念 に影響及ぼしているかもしれません。そして、そのコンセプトは最も明確に、象徴的なある一行に集約されています。サビの部分が「スキスキ大好き」で、可愛い感じになっていながら、最後の一行は、あの 「愛していると言わなきゃ殺す」 です。 愛していると言ってくれないと 君を殺すよっと。これがいわゆる、純粋に液晶化された「ヤンデレ」の典型例だと思います。おそらくスティーブン・キングの著書『ミザリー』の中でアニー・ウィルクスは、これ以上うまく言えなかったでしょう。アニー・ウィルクスがもし日本にいたとしたら、おそらくもっと可愛くなっていたと思いますが。 好き好き大好きの歌詞・英訳 多くのこの歌のイメージ、歌詞は、とても直感的で、生々しく、かなり暴力的です。例えばサビに入る前の部分で、 「キスミー殴るように 唇に血が滲む程」 というところがあり、英訳すると、 「Kiss me, like you're hitting me Till the blood comes running from my lips」 その後 「Hold me, till my ribcage Makes the sound of bone as it breaks」と続きます。 しかし、この歌詞は 生々しく、直感的であると同時に知的で頭脳的な ところもあります。歌詞の一部に 「本能で重ねる情事 無限地獄 アンチニヒリズムの直観認識は」 というところがあり、英訳すると、 「an instinctual affair. Over and over in a hell endless. A direct premonition of anti-nihilism.」となります。 「アンチ・ニヒリズム」 というような言葉が出てくることはポップ・ソングの中には、 欧米でも日本でも、ほとんどないでしょう、と言えると思います。 しかし、僕の中でおそらく次の一行が実際に英訳するのに一番苦労しました。 「潜在的幼児性暴力癖を誘発」 これはかなり奇妙です。何か問題が起きるような、ある種の心配させるようなフレーズでもあります。 「Awakens a latent, devious fixation」と訳しました。しかし、これはかなり寛大な翻訳ではないかと思います。 一般的な、クリーンな感じに訳しているものです。このフレーズにはいくつかの解釈があります。「性」という言葉をどこに置くかによっても。「性」」をどこに付けるのか。たとえば 「幼児」に付けることができます。だから「幼児性」は”infantile”になります。 しかし 、これはあまり一般的な言葉ではありません。一方で、「性」を付けられるもう一つの言葉 に「暴力」があります。つまり、「性暴力」、 その場合の意味は sexual violenceやsexual assaultを意味します。だから、「幼児」に 「性」をくっつけると次 のような翻訳ができます。Invite's a latent, infantile, violent propensity というような。 これでもかなり変な感じがしますが、「暴力」に「性」を付けるほど問題にはなりません。この場合「性暴力」になります。これだと、おそらく「awakens a latent paedophilic urge」と訳すことになります。 潜在的な小児性愛者を目覚めさせる、というようなつまり、幼児に対する性的暴力。 この場合 それ以外の呼び方はありません。 「paedophilia」になってしまいます。 多くの日本人もこのセリフに戸惑っているようです。ヤフー知恵袋で誰かが質問を投稿していました。 "この曲のこのセリフの意味は?" これに対して、誰かが 戸川純さんの本からの引用を投稿していました。 『彼女は自分の言葉で「それと言葉でいう幼児性ね。最近は全然暴力ふるいませんけど、幼児的な暴力癖があるんじゃないかという気がするので、意識の上では謙虚にしなきゃなと思いますよ。」』 だから、いろいろな意味で安心しました。彼女によると、「性暴力」ではないということです。そのような問題ではありません。とはいえこの曲の全体的な文脈を見ると、明らかに、暴力とセクシュアリティの関連性について述べたもの、といえると思います。考えさせられますね。ジェーンズ・ アディクションの曲でもペリー・ファレルが「セックスは暴力的だ」と言っています。つまり、この関連性を考えていたのは彼女だけではない、ということです。しかし、直訳して「小児性愛者」と訳す必要はありません。 助かりました。しかしながら、戸川純さんにはタブーとされるテーマをよく歌で表現します。 たとえば彼女のデビューアルバム「玉姫様」には同タイトルの曲があります。このアルバムのコンセプトというか、「玉姫様」という曲は月経の謎に迫る、というようなものでだから、彼女は物議を醸すような話題に触れることを恐れません。 「好き好き大好き」のプロモーションビデオの最初の部分でも猫を抱きかかえて可愛い印象です。 しかし、『前作が女性の「生理」をテーマにしていて、 今回のテーマは、「エロス」です』と彼女自身が言っていました。 このようなことから、私は、彼女がただのアイドルでもアーティストでもなく、 彼女はその2つを兼ね備えている存在だと思います。

    • 細野晴臣「僕は一寸」英訳 English version of Boku Wa Chotto

      僕はちょっと、ホソノハウスの演奏の動画、英語の解説などここにあります 「作品とは思えないわけよね。頭で創ったものじゃあないから。何かもっと、恥ずかしいものだね。作品として客観的に見れるものじゃないから。習作の時代だから」 "I don't think it's a “”work of art””. It's not something I created with my head. It's something more embarrassing. It's not som

    世界の「好き好き大好き」:戸川純の歌の英訳と背景

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