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「ネトウヨ」専門家が読み取った、ひろゆきの意外な「優しさ」──伊藤昌亮「ひろゆき論」を読む

 2023年2月8日発売の論壇誌『世界』に掲載された社会学者・伊藤昌亮さんの論考「ひろゆき論」が、ネット(の一部)で話題を呼んでいる。

■「吉野家オフ」「ネトウヨ」の専門家・伊藤昌亮

 伊藤さんは、2ちゃんねるの「吉野家オフ」の分析などを含む論文で東京大学から博士号を取得し、現在は成蹊大学文学部教授。教員になる前は、ソフトバンクのメディアコンテンツ部門で主にIT・サブカルチャー・ネットビジネスなどを扱う書籍の編集部で編集長を務めていたという異色の経歴の持ち主。

 約500ページに渡ってネット右派の構造と主張を分析し、その心情にも寄り添った『ネット右派の歴史社会学:アンダーグラウンド平成史 1990-2000年代』(青弓社)が注目を集めたのをきっかけに、いわゆる「ネトウヨ」に詳しい専門家としてメディアに登場するようになった。

『ネット右派の歴史社会学:アンダーグラウンド平成史 1990-2000年代』(青弓社)表紙

 そんな伊藤さんが、リベラル系論壇誌『世界』で、あの「ひろゆき」さんを分析するというこの論考。当然のことながら、読んでSNSで反応しているのも(勝手にカテゴライズして申し訳ないが)左派的なアカウントが中心となっている。

 例えば、『誰が「橋下徹」をつくったか──大阪都構想とメディアの迷走』などの著作を持つライター・松本創さんは論考の内容を要約した上で「読み応えあった」と称賛し、4万回の閲覧数を記録しているし、プロフィール欄曰く「九条の会」会員だというアカウント「Holmes」さんも同じく言及し、閲覧数は2万回となっている。本人のツイートの閲覧数も10万回近くカウントされている。リツイートなどの数字はあまり大きくないが、少部数の『世界』の記事にしてはかなり注目されていると言っていい。

 しかし、これらのツイートでは、伊藤さんの論考はかなり不自然に要約されている。

「ひろゆき論」は、若い層からひろゆきさんが支持される理由と、客観的に見て支持されるべきでない理由をそれぞれ分析したものだ。ところが、上記のツイートでは、記事で提示された「支持される理由」の大部分が、(おそらく無意識の内に)無視されてしまっているのである。

 そして実は、この無視されている部分こそが、伊藤さんがひろゆきさんに「優しさ」を見出している箇所なのだ。以下、筆者の解釈を挟みながら論考の概略を紹介する。

■若者が求めるネオリベラリズム

 今やどの書店でも平積みになっている「ひろゆき本」。内容的に重複することも多そうなそれを、なんと15冊も読んだという伊藤さんの分析によると、ひろゆきさんの主張にはやはり(同ジャンルの他の論客たちと同じく)「ネオリベラリズム」的「リバタリアニズム」的傾向がみられるという。

(……)彼の信者は、「日本はいつまでも変われないが、自分はいつでも変われる」という思い込みを抱くようになる。
 そうした思い込みは、もろもろの不満や不安を抱える者にとってはどこか心地よいものだろう。一方では「オワコン」の日本を「ディスる」ことで、社会への憤懣を安直に晴らすことができ、他方では自己改造の可能性を信じることで、自己への承認を安直に満たすことができるからだ。つまり自分がこれまでうまくいかなかったのは、このどうしようもない社会のせいだが、しかし便利なショートカットキーが見つかったので、これからはうまくいくだろうというわけだ。

 誰しもがそうとは限らないだろうが、本を読んでそれに影響を受けるような若者は、世の中に不満を持っていることが多い。そして、そんな現実に対する、自分たちが納得できる説明を求めている。この欲求があるからこそ、若者はさまざまな知識に触れようとする。

 そして、そんな若者の欲求に最もダイレクトに応えてくれる主張は、ひろゆきさんのそれに限らず、

「社会が悪いのは老害(普通の若者が入らなければ何を代入してもいい)のせい。しかしそれはどうしようもないので、あなたは自分ができることに専念すべき」

 というものだ。こういう主張は、自分たちは悪くないし、老害をバカにしてスッキリできるし、ついでに今の自分の努力や生活を肯定してくれて、人生に対するやる気が満ち溢れてくる……と若者にとって良いこと三昧なのだ。

 伊藤さんはこのような「公的なものを信任せず、自己責任に基づく市場競争を通じて自己利益の最大化のみを追求しようとする立場」をネオリベラリズム、もしくはリバタリアニズムに特有の考え方だと説く。それは事実上の「弱肉強食の論理」であり、未来のある若者や社会のエリートたちに極めて耳触りの良い世界観である。

■「優しいネオリベ」とは何か

 ところが、ひろゆきさんの議論は、ネオリベラリズム的な主張の「本来のお客様」であるはずの強者ではなく、むしろ弱者、それも彼なりの見方に基づく弱者としての、いわば「ダメな人」に向けられることが多いという。

 格差が拡大し、(高齢者やIT音痴などを取り残した)デジタル化が進む今の日本は、弱者にとって過酷な社会として論じられることが多い。だが、ひろゆきさんはその現実を、情報強者でさえあれば「会社で働けないタイプの人」でも一人で稼ぐことが可能になった「コミュ障」「なまけもの」「子ども部屋おじさん」にも社会参加のチャンスがある世の中として読み替える。伊藤さんはそれを、「強者の論理」の「弱者の論理」への転倒と表現する。

(……)こうした彼の見方は、今日のネオリベラリズムを捉え直し「ダメな人」のために再定義しようとするものだと見ることもできるだろう。それは「弱肉強食の論理」を推し進めるものでありながら、一方で「弱者の論理」を活かすものでもあるという見方だ。
 今日、ネオリベラリズムの強力な論理の中に否応なく巻き込まれ、それに適応せざるをえなくなっている人々は、それを「強者の論理」から「弱者の論理」へとこうして優しく転倒してくれる彼の議論に、慰めや励ましを感じ取っているのではないだろうか。

 ひろゆきさんのこういう部分には、ニートブロガーとして有名だったphaさんや、エロゲを論じていた頃の思想家・東浩紀さん、初期のやる夫スレなど、2000年代の(一部の)インターネット的ムードにも通じる、「(正しくない)弱者に対する優しさ」のようなものを、少なくとも読者が感じ取ることはできる。古の2ちゃんねる精神と呼んでもいいかもしれないものが、そこにはある。

 伊藤さんは、その「弱者に対する優しさ」と若者ウケするネオリベラリズムが入り混じった「優しいネオリベ」こそが、同ジャンルのIT起業家論客らと一線を画する「ひろゆき人気」の理由の一つだと考えている。左派のツイートにある要約からは、この分析が丸ごと抜けているのである。

■ひろゆき(信者)がリベラルと対立する根本理由

 おそらく、ひろゆきさんやその信者が「弱者に対する優しさ」を持っているという分析は、リベラルな彼らにとって受け入れにくいものだったのだろう。「なんで優しさを持ってる人間が沖縄の基地反対運動をおちょくって遊ぶんだ」という風に考えるのは当然だ。事実、本家本元「弱者の味方」であるはずのリベラルと、ひろゆきさん的なものはしばしば衝突する。

 伊藤さんは、その背景には両者の「弱者観」の違いがあると指摘する。リベラルの「弱者リスト」には、高齢者、障害者、LGBT、外国人、女性……といった、一般に社会から酷い扱いを受けがちな属性がリストアップされている。だが、そこにひろゆきさんが主に扱う「ダメな人」は、そこにはほとんど含まれていないという。

 ここでいう「ダメな人」とは「コミュ障」「ひきこもり」「うつ病の人」など、野党が優先的にマニフェストに載せたりは決してしなさそうな「正しくない弱者」「(自認としての)真の弱者」たちを指す。彼らはたいてい、左派の運動にも参加できないし、左派の政策によって救済されることもない。エンパワメントどころか「強者」に分類されて尊厳を踏みにじられることすらあるかもしれない。

 そんな彼らにとっては、正しい弱者のために社会を変えようとするリベラルな精神よりも、ひろゆきの「優しいネオリベ」の方が救いになるし、生きる勇気を与えてくれる存在となる。そして、リベラルの欺瞞を暴き、人権団体の不正を追求することこそが、彼らにとっての「階級闘争」になるという。

 (……)そこではリベラリズムが、彼らにとっての「弱者の論理」としてほとんど機能していないことがわかるだろう。
 それどころかそれは、特定の「弱者の論理」を押し付けてくるという意味で、むしろ「強者の論理」なのではないかと、彼らの目には映っているのではないだろうか。
 しかもそこで提示される弱者、つまりリベラル派の「弱者リスト」の構成員は、そうした「強者の論理」に守られている以上、もはや「真の弱者」ではなく「偽の弱者」なのではないかと、やはり彼らの目には映じるのだろう。というのも彼ら自身が「真の弱者」なのだから。
 こうした見立てに基づいて彼らは、「強者」としてのリベラル派と、「偽の弱者」としてのマイノリティに強く反発することになる。そうすることが「真の弱者」としての彼らの階級闘争となるからだ。

 辺野古をめぐる騒動での「リベラル叩き」の背景には、本来的な強者の「ネオリベラリズム」に加えて、この「優しいネオリベ」的な世界観があったことは間違いないだろう。

■「ひろゆき論」から何を読みとるか

 伊藤さんは、ひろゆきさんのこの「優しいネオリベ」的姿勢が持つさまざまな問題点を指摘して論考を終えている。その理由は、第一に、老害や「偽の弱者」叩きによる差別的な志向の増幅。第二に、「嘘は嘘であると見抜ける人でないと〜」という言葉に象徴される価値相対主義の絶対化による、陰謀論的な思考の増幅。この二つのいわば「副作用」があるために、ひろゆき的なものは支持されるべきでないという。

 しかし、ひろゆき的なものに対するオルタナティブを見出すのは難しい。(国民民主党や維新のような既得権叩き・リベラル叩きなしに)リベラル勢力が「正しくない弱者」にアピールするのは困難だろうし、そのための具体的な方法も私には思いつかない。論考を読んで、「優しいネオリベ」部分を無視して要約する人々には、そんなことは無理ではないかなという感じもする。

 また、「正しくない弱者」側──ここにはひろゆき信者だけでなく、ひろゆきさんを小馬鹿にしながら「ま、リベラルよりはマシだけど」と後方で腕組みしている人も含まれる──としては、この結論には到底納得がいかないだろう。ある対象を過剰に叩いて差別したり、陰謀論的志向を増幅させてるのは、現在進行形で統一教会と、それに関係する政治家を叩きまくっている方の陣営、つまり(一部の)リベラルではないのか、副作用があるのは「優しいネオリベ」に限らないのではないのか。

 こうして、左右双方から(一部を無視せず全部読むと)反発を喰らいそうな「ひろゆき論」だが、しかしそれでも、この論考には私たち全員が学びとるべきものがある。

 それは、ひろゆきさんを批判するにあたって、その著作を15冊買って読み、それが支持される理由を真剣に考えた、伊藤さんの姿勢である。

 伊藤さんはおそらく100%リベラル側の人間だが、「優しいネオリベ」を(消極的にでも)支持する側にとって、リベラルには嫌われる理由があるのだと、ある程度踏み込んで分析している。それは正しくない相手への一方的な批判ではなく、自己に対する内省と他者への敬意を含むものだ。これは、ネット右派研究に対する伊藤さんの姿勢と共通したものでもある。

 もちろん、本文では「未熟」云々とひろゆきさんのことを罵倒に近い表現でバカにしてはいる。ひろゆき支持者のことを「信者」呼ばわりしている時点で敬意は欠きまくってるだろ、と言われればそれはそうだ。

 だがそこには、たとえ僅かであっても、敬意と内省がある。その点では、他の、(安全圏から一方的に社会性が無いと相手を叩くだけの)ひろゆき批判記事や、ここ数年で各種媒体に掲載された(自己の姿勢に対する反省がひとかけらも無い)リベラル批判記事と比べれば、相対的には「かなりマシ」な方ではないだろうか。

 世の中には、「優しいネオリベ」的感性と、「リベラル」的感性を半分ずつ持っている人だってたくさんいるはずだ。私もその一人である。どちらか一つの立場を選ぶことはできないし、二つの陣営は必ずしも対立するわけではなく、対話も成立するはずだと思っている。

 事実、2010年前後にニコニコ動画に存在した「ニコ論壇」なる空間では、ゴリゴリの左派である津田大介さんと、「優しいネオリベ」ひろゆきさんと、「強者のネオリベ」の権化のような夏野剛さんが同じ場所で議論をしていたという。より遡れば、昭和の論壇では左右の論客が座談会で議論していたし、東大では三島由紀夫と全共闘が対話していた。敬意と内省を持って相手に向かい合うことは不可能ではないはずだ。

「ひろゆき論」には、読者を魅了する思想タームも、間抜けな誰かを一方的に叩く爽快さも無い。リベラルとしての内省的な分析自体も、普段から左派以外の論考を読んでいる人なら見慣れた分析だろう。ただ、そこには真摯な「姿勢」がある。それこそが、私たちが何らかの形で議論を前に進め、健全に物事を考えるために必要なもののはすだ。

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