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男たちの「淫夢」とその終わり──北野武『首』感想

 新宿ピカデリーで北野武『首』を観てきたので、感想を書いておく。当然ネタバレがあるので注意。

◆「キッチュでクィアな映画」なのか?

 本作は、戦国モノの王道である「本能寺の変」の裏側を描いた時代劇だ。物語の本筋はきわめて単純で、主人公・羽柴秀吉(ビートたけし)が、明智光秀(西島秀俊)をそそのかして織田信長(加瀬亮)を討たせ、さらに自ら光秀を討って天下を取る、というだけの話になっている。

 そのため、観客の関心は、戦国モノの華である戦闘シーンや歴史的場面よりも、信長や光秀を中心とした過激な男色シーンや、農民たちや忍びによるサイドストーリーの方に向けられる。当然、レビューも同じ側面を中心としたものになる。たとえば、北村匡平による次のような評価がその典型だ。

 さて、それでは北野武の『首』は、自身の過去作や戦国時代を描いた黒澤明の傑作時代劇『七人の侍』(1954)に対して、何をなそうとしているのか。まずは上述したように、自身の作品の閉塞したホモソーシャルな絆の世界に亀裂を入れたことに加え、黒澤時代劇では検閲の関係で描けなかった男同士のホモセクシュアルな欲動を前面に押し出したこと、すなわち『七人の侍』のテクストに潜在していたホモセクシュアリティを可視化したことがあげられる。そして『首』には、初期から北野映画を支えていた男のロマン主義的な死の美学はなく、黒澤映画に見出されるヒロイズムもいっさいない。
(中略)
「武人の本分が立たない」と首にこだわる武士たちに対して、農民出身の秀吉は武士の様式美にはまったく関心を向けない。とりわけラストシーンで秀吉がとる皮肉たっぷりのアクションが痛快でたまらない。世界の巨匠が作り上げた待望の新作『首』は、こうしたキッチュかつクィアな世界観で多くの映画ファンを虜にするに違いない。

https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/kubi-takeshi-kitano-film-review-202311

 この評の要点は二つある。

 一つは、本作が、これまでの時代劇で封印されてきた、もしくは禁忌の愛として描かれてきた「男色」を真正面から描いた〝クィア〟な物語であるということ。北村によると『首』は、従来のタブーを破り、より史実に近い赤裸々な同性愛を炸裂させたことで「BLファンにとってもたまらない極上のBL戦国映画になっている」のだそうだ。

 もう一つは、本作が、美しい英雄譚として語られがちな戦国時代を、欲望まみれのくだらない現実として笑う〝キッチュ〟な作品であるということ。政治家である武士たちの様式美を無視して、庶民の立場からその首を蹴り飛ばすラストシーンが「痛快」なのだという。

 つまり、北村によると本作は、同性愛に対する価値観をアップデートし、かつ保守的な政治家たちの価値観を笑い飛ばした、きわめて政治的に正しい作品なのだ。

◆秀吉は「リアリスト」ではない

 この解釈は必ずしも誤読とは言えない。映像の中には、北村の言うように読み解ける素材がたしかに存在するからだ。しかし、同時に、オーソドックスなものでもない。秀吉が「光秀の首」を蹴り飛ばすシーンを〝痛快〟に感じるこの解釈は、映画のキモとなる「主人公である秀吉の心情」をまるきり無視しているからだ。

 秀吉は本編で、男色にふけり、首に命を懸ける侍たちの価値観がわからないと自ら語る。そして、自分の息子に家督を継がせようとする信長の手紙を読んで激怒し、光秀をそそのかして信長を襲撃させ、光秀を自分が攻めることで天下を取る。この二つの描写だけを見ると、秀吉は一見、空想に目を向けず、ひたすら冷徹に権力を追求する〝リアリスト〟のように映る。

 しかし、物語には、そのような〝リアリスト〟としての人物像にはふさわしくない場面が大量に登場する。たとえば、「自分に天下を取らせてほしい」と家康に懇願するシーン。付き添いの部下・秀長は、かつて秀吉が信長の〝草履とり〟をして機嫌をとっていたことを思い出し、家康の草履を秀吉に持たせる。ところが、秀吉はその草履を池に投げ捨ててしまうのだ。自分面子を気にせず、冷徹に権力を追い求めている人間なら、こんなことはしない。

 さらに言えば、秀吉をそのような人物として描く意図があるなら、女性とのセックスシーンを挿入したり、天下を目前にして目をギラつかせている様子でも撮ったりすればいいのに、そういう演出はほぼない。秀吉の性生活は描かれないし、彼は天下を目前にして、嘔吐したり、駄々を捏ね始めたり、むしろ急激に衰弱していく。

 また、北村とは別の批評家は、秀吉が劇中で「敵将の首の争奪に明け暮れる武士や、その予備軍たる百姓の不毛な争いを冷ややかに見守」っていると書く。これは、秀吉に憧れて武士になろうとする農民・茂助(中村獅童)と、武士に冷ややかな秀吉が対照的な存在であることを念頭に置いたものだ。

 だが、農民が秀吉に憧れているのは、彼が「百姓から武士に成り上がった」特別な男だからだ。この特別な出世のためには、血の滲むような努力と、百姓の価値観からすればありえないような、主君に対する異常な忠誠が必要となる。だからこそ、かつての秀吉は信長の草履をとって(媚びへつらって)その機嫌をとっていた。

 映画冒頭、自分は百姓だから男色がわからないと語る場面も、言葉をそのまま受け取ってはいけない。彼は武士社会の中で、百姓として自分を卑下することで生き残ってきたのであり、男色が理解できないという発言はある種の「芸」でしかない。しかもそれは、秀吉が武士社会で出世するために体得してきた、きわめて非百姓的な技術だ。

 つまり、秀吉はどう考えても、口では「自分は百姓だ」と言いながら、内心では武士に猛烈に憧れ、そのために必死の努力を重ねてきた男なのだ。

◆ついに武士になれなかった男

 ところが、その秀吉が、今はもう家康に媚びへつらうことができない。かつての秀吉を支えていた精神が、あるタイミングで壊れてしまったからだ。

 そのタイミングとは、信長が自分の息子に家督を継がせる旨を書いた手紙を読んだ瞬間のことだ。このシーンではまず、秀長が「(手紙の中で)サル呼ばわりされたから怒っているのか」と問いかけ、それを秀吉が否定するセリフが入る。これは明らかにボケで、バカヤローと秀吉が突っ込む。自分が家督を継げないから怒ってるに決まっているだろうと。しかし実は、ここにはもう一段深い感情が存在する。

 手紙の内容にその証拠がある。信長はそこで息子に、家督を継いだのち、光秀らを切り捨てること、そして秀吉は、〝従わなければ〟切り捨てることを説く。ここで秀吉の扱いを分けて書くのは物語上ノイズにしかならないから、これはわざわざそう演出されている。つまり、秀吉が怒っているのは、本当は「自分がいまだ武士扱いされていないこと」に対してなのだとわかるように。

 どういうことか。この映画の中では、武士たちが、対照的な二つの価値観へと振り分けられている。まずは、自分の家督を子どもに受けつぐことを目的とするもの、言い換えれば「天下を目指さない」もの。これは中世における一般的な人間のあり方で、劇中では家康と異性愛、そして百姓に代表されている。

 一方、信長や光秀が属するのは、いまの地位に満足せず、ひたすら上昇=天下を目指す〝異常〟な価値観だ。異常な出世欲が、主君に対する異常な忠誠心となり、さらには(家督の継承にはまったく関係ない)男色へと発展していく。信長や光秀は、こちらの価値観こそ武士の本懐であると考えているように描かれる。

 劇中、光秀や信長との男色が描かれる荒木村重(遠藤憲一)は、「摂津一国」の領地では満足できなかったがゆえに信長に謀反を起こすという、この価値観を見事に反映させた行動を起こしている。武士が一国の大名になって満足しないというのは異常なことであり、信長はそんな村重の〝異常さ〟をこそ可愛がっていた。そして、同じく男色的な目線で可愛がっている光秀もまた、天下を取るために謀反を起こす可能性が高いとわかっている。だからこそ、信長は息子に光秀を斬るよう助言する。

 つまり、秀吉を「従わなければ斬る」ように勧める信長は、秀吉を武士として認めていない。しょせんは百姓で、その地位さえ認めてやれば従うような人間だと思われている。秀吉は、武士になるために捧げてきた自分の人生を、その主君に丸ごと否定されてしまったのだ。

◆男同士の破滅的な絆

 ただし、怒りの原因はそれだけではない。ここにはもう一つの感情がある。それは、人を人と思わぬ振る舞いを見せていた信長が、しょせん人の親でしかなかったという失望だ。これは秀吉だけでなく、本作における光秀反乱の動機にもなっている。

 歯向かう者は皆殺し、部下にも狼藉の限りを尽くす。そんな信長が部下に崇拝されるのは、──本編の描写を見る限りでは──彼が「破滅的な存在」だと思われているからだ。

 戦国時代の武士たちは、人を軽率に殺し、首をもぎとり、それを誇りとする異様な集団だ。この作品は、「首」をめぐるシーンに百姓たちがしばしば登場することで、その異様さを観客にしっかりと認識させている。この異常な社会では、まっとうな倫理観を保つ方が難しい。真っ当さから疎外された人々の間には、むしろ積極的に異常な方向──暴力・男色・切腹──へと向かっていく姿を美しく受けとる感性が育っていく。

 信長はその価値観を究極まで煮詰めた「第六天魔王」だと思われていたからこそ、光秀や秀吉の尊敬を集めていた。そして、彼が「魔王」であるという最大の証拠が、「息子に家督を継がせない」という、当時の社会の価値観を根底から否定するような言動だった。光秀が激怒したのは、この破滅への期待が裏切られたからだ。

◆淫夢とその対象

 ところで、破滅と男色によって結ばれた男同士の絆というのは、今の日本にはほとんど存在しない。というより、存在できない。それにはいくつかの理由がある。まず、近代化を経た日本では、男色が異性愛男性にとってタブーとされている。さらに、同性愛と破滅を結びつけることは(インモラルとして描くことは)差別的であると、良識ある人間なら誰もが認識している。この二つの前提がある以上、破滅と男色と男同士の絆が共存することは難しい。

 だが、インターネットの片隅に、偶然この三つが結合している文化がある。それは、「淫夢」と総称される一連のネット文化だ。これは、ある人物への差別的なネットミームを起点として発展したもので、ゲイポルノを違法にアップロードし、それに異性愛者たちでコメントをつけて嘲笑したり、ネットミーム化して公共の場に持ちこんだりすることで楽しむ文化だ。この文化はまた、ある時期からは新興宗教差別や障害者差別とも融合して、いま20代から30代にあたる(多くが男性の)ネットユーザーに広く受容されていた(そして、いま彼らはその文化と差別を無かったことにしている)。

 この文化は、根本的に差別的なものではあったが、単に差別的な笑いだけを原動力としていたわけではなかった。同性愛に対する社会の認識が移行期にあったこともあり、淫夢動画に対する同性愛差別的なコメントを嫌う矛盾した層すら存在していた。では、差別的な文化の中で彼らが何を求めていたのかというと、それは不毛さであり、破滅だった。

 当時の他のインターネット文化──米津玄師を生んだボカロやONEを生んだウェブ漫画──には、すでに商業的な活動への移行ルートが確立されつつあったが、淫夢にはそのような可能性が存在しなかった。違法行為と差別をもとにした文化は、あらゆる社会的行為の中でも(少なくともパンクロックを聴くよりは)トップクラスに不毛で破滅的なものであり、建設的たりえない匿名文化の中でしか存在できないものだった。そこに集まったのは、匿名文化圏でしか生息できないような(つまり社会から疎外され、実名で誇ることが何もないような)ネットユーザーたちであり、彼らはその社会への鬱憤を、他者を巻き込んだ自爆的行為で晴らしていた。

 そして実は、その不毛さへの興奮は、彼らが嘲笑(と愛着)の対象としたゲイポルノに含まれる破滅的な傾向と連動していた。たとえば、「阿部さん」のネットミームで知られる山川純一の漫画はその多くが破滅的な展開をたどるし、発端となった「真夏の夜の淫夢」シリーズでも悲惨なレイプが描いている。そこには、同性愛者が(淫夢にハマった人々と同じく/もしくはそのような連中のせいで)社会から疎外される中で生み出された、破滅的な男同士の絆を描く文化があった。

 本来の発売から10年ほど経ってゲイポルノに遭遇した人々にとって、ビデオの中の俳優たちは幻のような存在だった。ゲイポルノへの出演を実名で公にする人は、AVのそれよりも少ない。実際には社会の中で生きていたとしても、ネットに残ったわずかな情報だけを残して消滅したように見えた。つまり、淫夢文化には、もう歴史の中に消え去ってしまった人々の破滅的な遺産を眺めながら、自らの人生をドブに捨て、画面の中の破滅に憧れる……そのような側面があったのだ。

◆破滅的な男たちと、破滅できない男

 このゲイポルノと淫夢文化の関係は、本作における侍たちと秀吉の関係と重なる。

 秀吉は、破滅的な武士に憧れているから、その行動を真似ようとする。ところが、秀吉が部下を信長のようにいびろうとしても、そこには迫力がなく、部下たちは相手にしない。秀吉の側も、徹底して暴力を振るうことはできない。その情けなさが笑いに変化する。劇中には同じようなシーンがいくつも挿入されているが、すべてコント仕立てになっている。

 信長のように部下に強烈な忠誠を誓わせようと、信長討たれるの報を聞いて倒れ、主君の敵討ちに燃えているフリをしてみても、部下たちから「まるで用意してあったようだ」と真意を見抜かれてしまい、コントじみた展開になる。結局、天下で部下を釣る信長とは対照的に、秀吉は金銀で部下に実益を与えるしか、やる気を出させる方法がない。秀吉の部下である秀長は軽率に「ここで秀吉が死ねば…」などと口にするが、その軽さは光秀や秀吉のそれとは似ても似つかない。彼の部下には〝武士〟が集まっていないのだ。

 つまり、秀吉はどうやっても武士になりきれない男だった。真面目に武士になりきればなりきるほど、その姿はコントに近づいていき、ついに彼らの仲間になることはできない。一方、信長や光秀ら〝武士〟たちは、暴力と男色に支配された世界(淫夢)の中で生き、見事に破滅していく。秀吉は境界線の外側から、それをただ笑って眺めていることしかできない。まるで、ディスプレイの画面越しに淫夢を観る人々のように。

 事実、この映画で秀吉は、前線で戦う家康や信長や光秀といった武将たちとは対照的に、ただ一人戦場を遠くから(望遠鏡の画面越しに)観察している人間として描かれる。そこでは彼と武士との間に、つねに水や地形による物理的な境界線が敷かれていて、秀吉は最後まで破滅することができず、かつ、それを喜んでいない。

 この、破滅的な男(たち)と、その破滅的な男の仲間になりたい未熟な男の関係という形は、映画として何度も変奏されてきた。たとえば、覇気のない男がカリスマに憧れて拳闘をはじめる『ファイトクラブ』であり、男らしい英国兵に恋に落ちる華奢な日本兵を描いた『戦場のメリークリスマス』であり、死地に赴く侍たちの仲間になろうとする百姓──本作における秀吉や茂助と瓜二つ──を描いた『七人の侍』である。これらの作品はすべて、根本的な価値観を淫夢や『首』のそれと共有している。

◆夢の終わりと自分殺し

 信長と武士の世界に二重に裏切られた秀吉は、その陰謀によって両者を破滅させる。しかし、そこに笑いや喜びはない。川を越えた先に待っているのは、信長の死と、物量的に劣り、一方的に討伐することのできる光秀の軍勢だけだ。それは言い換えれば、秀吉が人生をかけて追い続けてきた「夢」の終わりでしかない。何も考えずに夢を見て笑っていられた時代が終わり、破滅が訪れないまま、現実に俺一人取り残される。それのどこが「痛快」なのか。この物語を表すのにふさわしい言葉は、〝キッチュ〟でも〝クィア〟でもない。

 ついでに言えば、破滅する武士たちの死は、たけしが自身の映画で演じ、憧れてきた美しく破滅する男たちの死でもある。さらに言えば、何十年もたけしを「殿」と慕ってきた「たけし軍団」を愛人関係のトラブルをきっかけに絶縁してしまった(らしい)たけし本人の死でもあるだろう。評論では父殺し、母殺しということがよく言われるが、たけしがここでやっているのは自分殺しに他ならない。他人の夢である自分、自分が観た夢、その集合体としての夢の世界。本作はそのすべての「夢の終わり」を描いた、まったくもって虚無的な作品なのだ。

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