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アザミ

花言葉は独立、厳格、人間嫌い等々。

さて、人物の撮影の時どうしてジョハリの窓のうちの「HIDDEN」を使うか・・・までを前回書き上げました。

前回の記事はこちら。



これには様々な理由がありますがやはり、私の写真のモデルは私の死生観や夢の世界を表す必要がある・・・というのが一番大きな割合を占めます。

とは言え、その上でもモデル自身が気づかなかった自分自身というのも、私という窓から見たモデルさんという人間を見つめ直して欲しいという気持ちもございます。

そして、私の作品を見た人間には私の見えている世界を知ってもらい、
その感動(いい意味でも悪い意味でも)を刻みつけ、あわよくばその人の生涯に直接的では無いにしろ何かしらの影響を与えたい、という気持ちも少なからずございます。

こういうのって、順位づけをするものでは無いというのもわかるのですが、読んで頂いている皆様に何とかして伝えたい・・・。
勿論、上記三つの優先度が状況状況で変わる事も踏まえた上でです。


モデルとモデルを、モデルと写真を観た人を、モデルと私を、私と写真を観た人と、写真を観た人とその人本人を、私と私自身を、そして私とモデルと観た人をつなげます。

一枚の写真が持つ影響力というのはこの切り口からだけでも7個を繋げる訳です。


死生観ほどでは無いにしろ、その辺も強く思い描いています。


そうですね。

芸術家は作品を以ってして、血縁を超え家族になれる場所を作れる存在である・・・とでも言い換えましょうか。
作品と感動した人が伝播していく。これは流行る流行らないという小さくも大きくも無い括りではなく「個」と「個」の極限、究極の人付き合いだとも考えております。


一枚の写真が持つエネルギーのようなものは実に強大です。
そこに魅せられているからこそ、私自身も撮り続けたいと強く思いますし、おそらく今後もそうする事でしょう。


生命の根幹は海で生まれ、皆最初は一つの生命体だったのととてもよく似ている気がします。

写真が海で、感銘を受ける人々が生命体・・・みたいなイメージ。
これは写真だけでなく、音楽も、文学も、絵画も、彫刻も、建築だってそうです。今挙げなかった分野だって皆等しく大海であると思います。


そんな中で、その生命体のうち、海に広さと深さをその生命体独自の方法で自己以外に伝えているのが私ら芸術家だと考えております。



友人の彼は「才能が摘まれていくのを、俺は絶対に見たくない」と言っていました。


まぁ・・・とっても個人的な話になってはしまいますが、この彼の言葉の原動力と言うか、根幹の力強さには実に頻繁に助けられております。


とは言え、私は彼の言っていることの真髄まで汲み取れないのも事実です。


私個人は皆個々で才能を持ち、「表現」や「創作」ができるポテンシャルを持っていると思ってます。

それを目に見えるものにしてるかしてないかはその人の居る社会集団での「役割」によって違ってきますし、
それが違う、またはそのポテンシャルが露見しないからこそ芸術という分野の可能性が広く在り続けると感じております。

芸術がどうして広まるかは、民衆がそれを受け止められる器を持っている(タイムリーで無いにしろ)生き物だからです。
これを読んでるあなたも、このように宣う私自身も、です。



かく言う彼も、私から見たら素晴らしい才能人に違いはありませんし、美しいと思ったものへの思いの強さは私とは違うベクトルですが、かなり強いと感じます。


先日の記事でも書きましたが、ヒトという生き物に残された最後の能力は「創造力」だと思ってます。



ま。
好き勝手言うのは自由ですから。

だからこそ、今こうして私が言ってる言葉に自分で責任を感じています。

それは、自由であるために必要だからです。自戒というのは非常に大事だと思ってます。

どの選択をしたとて、ついてまわる訳ですからね〜。。。


恐らく、私自身のこれからというのも、並大抵の覚悟じゃ進めない道では在りますが・・・。


そうだ、その友人に「君は自分を大事にして無さすぎる。」と言われたのを思い出しました・・・。
それについてはまた後日、考えをメモしていこうと思います。



とりあえずはこの辺で締めようかと思います。



嫌なことに対しては極めて重い腰を持つ私が動こうと思えたのはこういう事を包み隠さず正直に、美味しく食べられるようにオブラートに包んで言葉を届けてくれる友人達とのご縁あってこそです。


この辺で。

それでは皆様、ごきげんよう〜。良い1日を。



お楽しみいただけましたら幸いです^^