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エーグルのコート

ふう。坂道を前にして一息ついてコートを脱ぎ、無造作にぐりぐりとねじってスーツケースの持ち手に結び付ける。気温はせいぜい15度くらいしかないが、重いスーツケースをガラガラとひいて歩いていれば、じんわりと汗ばんでくる。タクシーかバスを使おうと思ったが、長時間のフライトとバス移動で少し気分がわるくなっていたので、外の空気を吸いがてら40分ほどの道のりを歩くことにした。この国についたばかりでタクシーの番号もひかえていなかったし、バスはたくさんあって乗り間違えるのがこわかった。

でもさすがに、この重いスーツケースをひいて徒歩40分はきつかったかも。グーグルマップを確認すると、目的地までの時間がさっきとほとんど変わりないのに絶望する。いままでにも色々な場所をこのスーツケースと一緒にあるいてきたが、今回は海外移住なだけに、いつも以上に中身を詰め込んだ。ふと下を見ると、いつのまにかほどけたコートの裾に大きな穴がふたつあいていた。どこかで、スーツケースの足にひっかけて引きずってしまったのだろう。

あーあ。
それを見た瞬間、え、このコート高いのに、というベタな感想以上のショックがあった。

こうなることは分かっていた。私はこれまでに何度も同じようにこのエーグルのコートをじゃまだと思いながらスーツケースに結びつけていた。
でも私は今回も家を出るとき、このコートを母から受け取った。
もしこのコートを受けとらなかったら、母からの愛を拒否したようで、できなかった。

でも、ひとりで旅行など一度もしたことがない母が、旅行するのにいいコートを選べるはずがなかった。私はただ、ひとりよがりな愛を押しつけられていただけだった。

まだ10月のはじめだというのに落ち葉のつもり始めている道を、涙をこらえながら足早に過ぎる。

このコートはもう捨てようかと思ったけれど、やはりもう少し手元に置いておくことにした。裁縫セットを買って、穴を繕ってみよう。裾の汚れなんてそんなに目立たないし、あと2,3回は着てみようか。

それでいい。エーグルのコートは、捨てたくないのなら捨てなくていい。でも、これからの私の人生は、私にとって最適なコートを選べる人といっしょに歩かなければいけない。

(2022年11月)

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