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専門家とメディアが共存共栄の関係である、という危機

 前回の続き。

 この3年間で気になったことに、

「実はメディアにおける科学ジャーナリズムは全く機能していないのではないか?」という疑念

がある。
 何だか無批判に多数派の専門家の意見に同調するだけ、目立ちたがり屋の専門家の御託宣を垂れ流しているだけ、のようにしか見えなかった。政治的な問題かとも思ったが、そうではなく、これは20世紀後半から今世紀にかけて立ち現れた、専門家とジャーナリズムの間で形作られた歪な「システム」が引き起こした現象だったようだ。
 以下、ページ数のみ記載した引用は、👇の本「9章 科学知・メディア・ジャーナリズム」から。

 メディアにおいて科学を扱うのは科学ジャーナリズムである。
 科学ジャーナリズムの役割とは
(1)科学知を伝達すること
(2)科学が深く関係する社会問題について、議論の場を構築すること
の2点だ、という。
(1)の役割で求められるのは、いわゆる「忠実な翻訳者」としての振る舞いである。つまり、専門家という情報の「送り手」と、情報の「受け手」となる専門家以外の人々の間を媒介する、「情報媒介者」というべき立場である。
 送り手としての専門家からの情報が得られなければ、媒介すべき情報を得ることに支障が生じ、役割を果たすことができなくなる。
 もっとも、現代であれば時間と手間をかければ、自ら情報を手に入れる事だけは可能だ。しかし、情報を読み解くために前提となる知識が専門的かつ膨大であることも多い。専門家ですら読みを誤るような内容もある。専門家からの情報が無い状態で媒介するには、相当の時間と労力が必要となるだろう。

(2)の役割においては、科学知を伝えるに留まらず、「社会的文脈における科学知の意味を見いだすこと」が主目的となる。そのため、専門家集団の中で多数派から批判されている少数派の論点や、その科学知に不安・不信を表明する市民の意見なども紹介しなければならない。
 この場合、情報の「送り手」は専門家のみに限らなくなる。さらに専門家自身が情報の「受け手」の一員となる
 少数派の論点や市民の意見の多くは、多数派にとってあまり都合の良くない情報のことが多い。当然、多数派専門家からの反発は免れない。

(科学における)知識生産の機能不全を、「ジャーナリスティックに」俎上に上げることは可能はずだが、そうした科学共同体内部に踏み込む試みは、しばしば科学共同体から「適切な科学の伝え方ではない」とされ、このような試みをする媒介専門家はときに「反科学」の烙印すら押されるのである。

P.203

 しかし、仮に専門家が「申し分なく倫理的であっても、科学の営みにおいて発生する問題事象は確かに存在する」のだ。
 これを見過ごすことなく(2)の役割を果たすためには、専門家集団から独立した立場をとらねばならないだろう。

 ここで、(1)と(2)が両立し得るのか、という問題が発生する。
 (1)の役割を円滑に果たすためには専門家から情報を得る必要がある。その際、(2)の役割を重視したばかりに、専門家より「反科学」の烙印を押されてしまったとしたら、その不利益は計り知れないものがあるだろう。ジャーナリズムは(1)の役割を果たすためには多数派の専門家に従順にならざるを得ない。つまり(2)が蔑ろにされる。

科学ジャーナリズムは、科学知の専門家を重要な情報源とせざるを得ず、完全に独立した検証を行うことは不可能に近い(それを行おうとすれば、メディアは自前の実験室を作り、専門家を雇わねばならない)。(中略)取材対象からの独立を貫くことは、科学知の供給源が科学共同体である以上、非常に困難なことである。

P.207

さらに近年、

専門家が、「パブリック・リレーションズ」いわゆる「PR」を戦略として取り始めた

ことが、(2)の軽視に拍車をかけている。

PRはしばしば「広報」と訳され、その実態は「宣伝」であると誤認されている。しかし本来のPRは「広報・広聴」という初期の訳語が示すように、組織体が公共的責任を果たすための、社会との双方向コミュニケーションを指向する活動である。

P.209

誤解を恐れずに言えば、「自己や組織の、社会における存在意義を構築・維持するための戦略」となるのだろうか?
PRはプロパガンダと紙一重だ。PRストラテジスト(?)の本田哲也氏の文章より引用。

(プロパガンダは)多くの人がナチス・ドイツの発明だというイメージを持っているが、そうではない。その源流はPRが生まれたアメリカにある。いわゆる戦争プロパガンダの始まりは、第一次世界大戦における米国の「クリール委員会」だ。クリール委員会はウィルソン大統領直轄で、「この戦争はデモクラシーで世界平和を実現するものだ」という戦争宣伝を展開した。
(中略)
「広報・PR」と「プロパガンダ」は、同じ母親から生まれていながら、それぞれの数奇な運命を歩んだ兄弟のようなものだ。その発想や手法論にそう大きな違いはない。

2017年11月号 広報会議 本田哲也のGlobal Topicsより

 科学における専門家集団も20世紀後半ごろより「公衆の科学理解(PUS、と略されるらしい)」に働きかけるために、PRが有効であることに気づき始めた、という。
 上記の本「科学社会学」には例として、
「『遺伝子組み換え作物』問題において、環境団体の『神の摂理に背く科学』というラベリングに対抗するために、科学者が企業と同調して『大衆の誤解』を打ち消すための『安全性』に対するメディア・キャンペーンを企図したこと」
が挙げられている。
 しかしそれよりも、この3年のコロナ対策禍とワクチン禍の基になったメディア・キャンペーンを思い起こした方が分かりやすいかもしれない。

 専門家集団が企業宣伝のようなPR戦略をとるにつれ、彼らは社会を「情報消費者の集まる市場」とみなすようになっていった、という。

科学共同体は
集団としての系統的懐疑主義よりも特定の研究者のスター化を、
科学内の議論状況を伝えるよりも「科学界の統一声明」を出すことを、
公共に必要とされる知識を伝えるよりもイメージを形成するプロパガンダ
目指してしまうのである。

P.210

 しかし、PUBのための手段であったはずのPR戦略が、いつしかメディア露出のための手段に変化した。
 研究を続けるためには金がいる。現代の「産業化科学」においてプロジェクト化した科学においては、なおさら金がいる。金を集めるためには「とりあえず目立つこと」が必要だ。

(予算獲得のために)「世界大学ランキング」のような知の格付けの商業的圧力を無視することはできず、結果的に多くの研究機関や大学では「メディア露出」が科学の評価項目となる
わかりやすい研究成果をメディアに取り上げて貰い、(中略)公的・民間資金、ひいては人材の確保につなぐことが目的化するのである。

 取り上げてもらうためには、分かりやすく、耳目を引き、賛同を得やすい「プレスリリース」を作成しなければならない。
 そのため、意図の有無にかかわらず、研究によって得られる利益や安全性が、やや誇張された(稀に大きく誇張された)プレスリリースが公表されることになる。
 科学ジャーナリズムがプレスリリースを鵜呑みにせず、研究内容を詳細にチェックすれば、その誇張に気づくことは可能なはずだ。
 しかし、残念ながらそうはなりにくい。

(ジャーナリストは)社会における情報の流通・代謝速度の増加に伴い、その営為の最適化を迫られている。膨大な情報を(中略)鮮度が落ちないうちに伝えようとすれば、それらはプレスリリースの主張する利益をそのまま喧伝し、新たな科学知が内包するリスクについてもプレスリリースが控えめに言及する内容を転写するのみである。
(中略)
医療分野でも、「報道による誇張」として批判されてきたものは、そもそもプレスリリース段階の誇張に起因していることが実証的にも指摘されている。

P.213

ここに、専門家とジャーナリズムの共存共栄関係が確立される。

 ジャーナリズムは無駄なく情報を得るために専門家に従順となる。専門家はジャーナリズムの目を引くために、分かりやすさやイメージ戦略を重視する。そしてジャーナリズムの役割(2)「科学が深く関係する社会問題について、議論の場を構築すること」は完全に置き去りにされる。
 そりゃそうだろう、このようなシステムの中で、メディアにとっても専門家にとっても(2)によって得られる利益は極めて少ないのだ。役割(1)「科学知を伝達すること」だけで回しておけばメディアと専門家にとってwin-winなのだ
 
 この歪な共存共栄関係の膿が噴出したのが、この3年間だった、ということだろう。まあ、両者とも「膿」であることは認めないだろうけど。
 おそらく、NHKが捏造報道を行うに至った根本原因もここにあるのかもしれない。NHKは総合、Eテレともに科学ドキュメンタリーや科学バラエティが多いので、専門家の協力を求める機会が多いだろう。だから、どこのメディアよりも「反科学」の烙印を押されることを恐れているはずだ。
 
 しかし、これではジャーナリズムが根拠の薄い「信頼神話」の復活と維持に加担しているだけではないのか?ただの「情報媒介者」に甘んじていていいんですかね?
 
専門家側もあまり無茶をすると、いずれ信頼の大崩壊が起こるかもしれないが、いいんですかね?
 両者とも、今はいいのかもしれないが、将来に重大なリスクを背負わせていることに、そろそろ気づかねばならないのでは????


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