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「性格が良い」を天性の才から習得できる技術へ解体する

充分に適応した知能は、性格と見分けが付かない。これは大事な知見だね。

内心を覗き見る方法が存在しない以上、「自分はAと考えるが、世間ではBという言動がこの場合は標準的であり、望ましい」という類推ができれば、性悪な人でも感じよく、性格が良いふりをして社会に適応できる。性格が良ければ高く評価され、目的も達成できる。

これは社会のバグか?脆弱性か?いや、福音だよ。だって社会からは「自他に迷惑をかける感じ悪い人」が一人減って、本人は目的を達成する。

「感じが良い」を直接考えるのは難しいから、まずは考えやすい「感じの悪さ」を分解する、というのがというのが前回前々回の話だった。そして今、満を持して本丸である「感じが良い」について迫ろう。

性格・知能・信念の関係

同じ状況を前にしても人によって考えや行動は異なる。環境をどう認識するか、そして環境が私をどう認識していると考えるか、こういった個性は性格だけでなく知能も影響しているというのが前回ハカセが書いた内容だったね。

そして周囲にとって有害な性格は「悪い性格」という定義づけは便利だからここでも引き続き使おう。混乱を避けるため、通常われわれが想定している性格は内面の性格とし、外面から観測し得る性格を「良い性格」「悪い性格」のように「」でくくる。この場合感じが良い、悪いが「性格」にあたる。

この書き方でいくと、「良い性格」というものは知能と内面の性格の総体としてのみ観測される。つまり内面の性格が歪んでいても、それを認知して補正できる知能が備わっていれば、「良い性格」を持つ人間としてふるまえるし、外部からは「良い性格」としてしか観測されない。

だが特に「良い性格」について理解を深めるには、もう一つ、信念という要素を加えると話がわかりやすくなる。興味深いツイートを見たので引用する。

昔読んだ本に「ニーチェは実生活では付き合いにくい人だった。スピノザは賢者のように穏やかな人だった。でも、これは彼らが自分の哲学に忠実だった=自分の哲学が要請する生き方に従った結果で「性格がいい、悪い」とは全然違う」みたいなことが書いててさ。色んな出来事がある度に思い出すんですよね

最近は黒沢清監督の聖人っぷりが話題になることが多い。実際にスゲーいい人なのだと思うが、単純な「性格がいい」とも微妙に異なる気がする。もしかしたら監督には監督の従うべき自分の映画哲学や信念があって、その哲学があの紳士的な態度を要請しているのではないか。そういう気もちょっとするのだ。

https://twitter.com/madanaizo/status/1511590691218276356

「良い性格」が知能(の一部)と内面の性格によって定義できるとしても、その良さの質は多種多様である。「良い性格」=自分の行動を環境に適応させる事ができる能力がある人、つまり、己の行動を自分の思うように方向づけられる人であれば、どの方向に舵をとるかは信念に従う事になる。

「性格がいい人」だけが信念を持つのか

じゃあ性格が悪い人には信念がないのか。直観的にはそんなことはない気がする。だから場合分けして考えてみよう。

まず自分の行動を自分でコントロールできるほどの知的能力がない場合。たとえば些細な事でいきり立って、周囲の人間関係を毀損するタイプの人。これは信念があってもまったく参照されずに衝動だけで行動するから信念があってもなくても、周りからは信念の存在を確認できない。だからないのと同じだ。

次に自分の行動をある程度コントロールはできるが、トータルで見てそれが自他ともに損である事を気づけていない場合。たとえば暴言や暴力といった方法を日常的に使う事で人を支配しようとするタイプの人。これは目の前の人間関係では自分が王になれるかもしれないが、非常に脆弱で、相手してくれている者が目の前から去っても破綻するし、より強い力(弁護士という司法の力や上司を殴り返す部下という直接の暴力)でも破綻する。

このパターンは少々厄介で時として、暴言や暴力を愛の鞭という言葉で正当化し、肯定する信念を持っている事もある。このタイプはかつては「熱血上司」というカテゴリがあてがわれており、必ずしも社会から排斥されない存在だった。だが今は違う。我々の社会が排斥した。急にその辺で殴り合いが始まるような世界、北斗の拳のような世界に住みたい人間はいないからね。

だから一般的に、自他にマイナスになるような行動をとる人は知能が足りないか、知能があっても(この社会が)有害な(と定義づける)信念を持っている。そうしてみると、やはり自分の持つ信念が社会にとって有害であると気づくにはある程度の認知機能、特にメタ認知が必要になる。

他人からあれこれ言われて信念を捨てるのは難しく、またその程度では捨てられないようなものこそが信念だ、というのもわかる。だが自分の知能を高める事を拒否する人はそうそういまい。だからここからは、「良い性格」を生まれ持った才能だけの独占物から解放し誰でも扱える技術にまで解体する方法を考えようと思う。

可愛いは作れなくても「良い性格」は作れる

「勇将として知られた劉備が、無名の若造であった諸葛亮に三度も協力を願い出た」という有名なエピソードで、劉備の敬意と礼節に胸を打たれた諸葛亮はその後に劉備の軍勢に加わります。
この礼節や協調性は、ある意味で「性格」と言えるかもしれません。
しかし、結果として劉備は有能な軍師を獲得しました。
であれば、「目的を達成する賢明な手段を取った」という意味で、この劉備は「高度な頭脳戦を制した」と見ることもできますね。

https://note.com/0ur0b0r0s/n/n37e9d1b0fbd7?magazine_key=m974ee7671e56

三顧の礼の劉備が果たして「良い性格」を作っていたのか、自然体だったのかはわからない。だが、確実に言えることは皆が彼を「良い性格」と認識できたから彼の元に多くの人材が集まった。

じゃあどうやって作るのか。何事もその道のプロに聞くのが一番だ。毎日、毎時間のように「良い性格」を作り続けてる事で社会からの排斥を免れている人々がいる。

そう、残念ながら現実は非情で、いくら多様性を尊重する世の中になっても初デートで北朝鮮の工作船を見に行くと恋愛関係に問題を起こしかねない怒られている時に「なぜ○○した」と言われて理由を答えるとさらに状況は悪化する。このまま何もしなければ社会から排斥されてしまう。

生まれ持ってのこの思考パターンは国籍や肌の色同様に変えられないが、それでもって排斥されたんじゃたまったものじゃない。だから彼らは健常者エミュレータという概念を使うことで対処している。

健常者エミュレータは、
・「ある特定の状況」をインプットとし
・「健常者ならとるであろう行動」をアウトプットとする
・if~then形式で定義された
・論理の集合体
を構築する思考装置のことである
(中略)繰り返すが、自分自身が健常者である必要性は全く存在しない。あくまでも仮想的に(実質的に:virtually)健常者が行うであろう思考を擬態できれば、健常者のふりをすることは充分可能である。

https://contradiction29.hatenablog.com/entry/2021/06/30/210154

健常者エミュレーターの説明において健常者を「良い性格」と置き換えても全く同じスキームが使える。なんなら自分の信念に合う好きなものを代入したっていいだろう。良き隣人ならこうするはず、紳士ならこうするはずだ、英雄ならこうするであろう、なんだっていい、自分がなりたいと思うものなら。

ようこそ、慎み深い合理的な世界へ

ここまで読んで、「これでは飼いならされた家畜じゃないか」と思ったあなた。利口だね。その通りだよ。でも気づくのが遅い。それは700万年前に言うべきだった。

人類は長い時間をかけて、攻撃的な個体、暴力的な個体そういったものを丁寧に丁寧に排斥して繁栄してきた。もちろん戦争は歴史につきものだけど、敵味方を区別して集団で戦う戦争と、目が合った人間すべてに喧嘩を売るのでは社会性が全く違う。戦争は悪だが、組織だった闘争をするために社会性は必須だからね。

たしかにみんなが「良き隣人」である慎み深い社会、あまり面白くないよね。もっと万人の万人に対する自由な闘争状態、スリルがあってエキサイティングであるべきだと思う人もいるだろう。でもね、社会は君を満足させる動物園じゃないんだ。その中にみんな暮らしている。人によっては隣人の暴力性におびえながら。

どちらを選んでもいいとは思う。人類まるごとを閉鎖病棟に閉じ込めるかのごとく、合理的で理性的な慎み深い社会も。あるいは人がもっとむき出しての感情を自由に表出し、好きな時に好きなだけ暴言も暴力も行使できる世界も。

でも気を付けて。後者を好む人は、多数派が望む調和的な社会に背を向ける事になる。背を向けるのは社会に対してだけじゃない、その社会が与えるスケールメリットに対しても、だ。我々を閉じ込めている殻を破った後で、実はそれが我々を守り、はぐくむ繭だと知っても、どうしようもできないからね。

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