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なぜ「ザマーミロ」はタブー視されるのか。

善人ならざる者が、善人として生きるための手段は2つ。自分で他人を観察して学ぶ、他人が自分を観察した結果を学ぶ。そしてそのためには「自分のことをヒトゴトのように見る」「ヒトゴトを自分のこととして想像する」が鍵となる、という結論までがここまでで出たようだね。

この2つは内面は伺い知れないのだから、観測可能な情報のみハックするという手続きに帰結される。ここからは今まで触れずに置いてきた、観察し得ない内面の話をしたい。

内面は一種の聖域だ。今後100年、神経科科学が進歩して他人の脳が感じる視覚や聴覚あるいは興奮や快感、あるいは原始的な感情すら読み取れるようになっても、複雑な考えを文字として書き起こすのはまずもって不可能だろう。

その不可侵な聖域の中の俗な感情、理性のベールの向こうの野蛮な思考、今日はそれにフォーカスを当てたい。

端的にいうと散々イキっていた馬鹿が酷い目にあったとき、今までの狼藉を許してかわいそうと思えるか、ザマーミロと思えるか、そこについてた。

ドイツ語圏にはSchadenfreudeという言葉があって、英語には適切な訳がない、という与太話を聞いたことがあるだろうか。英語の慣用句のRoman holiday(ローマの休日)は似たニュアンスだと思うが、私は英語ネイティブではないので断言はできない。

だが、少なくとも日本語なら訳語には事欠かない。一番わかりやすいのは「ざまーみろ」やネットスラングでいうところの「メシうま」だろう。

未見の人には些細だがネタバレになってしまうのでタイトルは伏せるが、ある映画で、カルト宗教の信者が生贄に志願するシーンがクライマックスにある。イチイの樹液から作ったジャムを、「苦痛なく最後を迎えられる」と司祭が志願者の舌に載せる。そして生贄の儀式が開始されるが、もちろんイチイの樹液にそんな効果はなく、ジャムを口にして安心した30秒後にはその信者はむごたらしい苦痛の中で絶叫しながら死んでいくんだ。

でも多分、彼にとって一番苦痛なのは身体が致死的に損壊されていく苦しみじゃなくて、今まで自分の人生を通じて信じてきたもの、自分が命を投げ打った価値体系が、全てペテンであり、嘘であり、虚構であると知ったこと、そしてそんなゴミのために自分が死につつあり、どうやってももう助からないこと、その後悔だろう。

もちろんこれを見て、カルトに騙されたかわいそうな男の末路と同情することもできる。でも作中でこの信者は無実の人間を何人も虐殺しているので、スカッとする人もいるだろう。それこそ、ザマーミロ、というような感情を抱く人だって。

因果応報という言葉を知る前から、子供の時に散々聞いた昔話や寓話の端々にこの類型は数多く登場する。自分が好ましくない感情を抱く相手が、自分の手を下さずに破滅するのを見るというのは、単に敵が打ち倒されただけではなく、自分がやらなくても同じ志をもった誰か(もしくは不運や天罰という形で神や天)が打ち倒したという、一種の共感に基づく安堵をもたらすのではないかと思う。ああ、やっぱりあいつを鼻持ちならねえって思ってたのは私だけじゃなかったんだな、という。

素朴な感情論以外にも、神経科学の側面からのアプローチもある。顔面の良い異性や金銭的報酬にならび、人が処罰されているのを見ることも、脳の中の報酬系を活性化させる。嫌な奴が人が酷い目に遭うのは脳の働きからしても娯楽なのだ。(Singer, T. ,et al. 2006. Nature, 439)

世界史でも魔女狩りといい革命といい、広場で誰かを処刑するのが娯楽だった時代は長く続いており、慣用句にまでなっている。そう、冒頭の「ローマの休日」だって、もとはローマ時代の人が公開処刑される「娯楽」を起源に持つ言葉だ。だって処刑が密室化したのはせいぜいここ100年ちょっとのトレンドだよ。

しかしながらそれでもこの感情は、あるいは少なくともこの感情の表出は、社会において少なからずタブー視されているように思える。

これは私が生まれる前の話だから、リアルタイムで聞いてたわけではないが、都市伝説ではない実話を一つ紹介しよう。

ゴールデンウィーク中の生放送でデーモン小倉閣下が交通情報を伝えるアナウンサーに、「君が働いている間、遊びに行って渋滞にまき込まれている者をどう思う」と振ったところ、アナウンサーは「ザマーミロという感じです」と発言し、のちに始末書を提出することになったという。

正直に言おう。やはり気に食わんキャラクターが破滅したときに、沈鬱な顔を作って相手に同情するより、ポップコーンを頬張りながらゲラゲラ笑うのが楽しく感じてしまう。というより世の中は善人であれ悪人であれ、誰かがどこかでいつも酷い目にあっている。もし万人に共感するなら、この世は苦痛に満ちた地獄ということになる。だから、自分が賛同しかねる人間の憂き目には多少のカタルシスを感じることで精神の均衡をとることができる。

そういう時に決まって内面の悪魔、いやこの場合はハイド氏というべきかな、そいつが囁くんだ。

ほら、小学校でも散々いわれていたじゃないか、「常に笑顔で」「スマイルとポジティブさが大事」と。気に食わんキャラが破滅したんだ、ポップコーンとコーラを食べながら笑顔で前向きに鑑賞しようぜ、と。

だからこそハカセに聞いてみたいんだ。ハカセは俺と同じシニカルな視点を持っていても、いままで自分と敵対する人間の苦境ですらザマーミロと思ってないどころか、時には一緒になって戦っていたね。これは尊敬に値するが、だからこそ、このシャーデンフロイデもしくは「ザマーミロ」について、普遍的な感情であるにもかかわらず、それがなぜここまで秘められているのか、その考えを聞かせて欲しいんだ。

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