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すべてを言葉にできなくても

誰かと目が合う。そのことで通じる感情がある。

誰かと手が触れる。そのことで通じる感情がある。

言葉を紡ぐこと以外にも、感情を伝える術は多くあると思っている。

今朝の電車の中でのことだった。それなりに混雑する車内で、僕の斜め前の2つの席が空きそうになった。座ろうかと考え視線をあげると、傍に立っている女性と目があった。その人と僕はしばらく目を合わせた後、席についた。お互いに最も近い席に。

僕にとって最も近い席は、ドア横の端だった。その女性にとっては、隣のいないその端の席の方が気楽だったのかもしれない。けれども目があった後、彼女は自発的に自らに最も近い席を選択した。選択した、と書いたのは、2人の中で目を合わせ、どちらの席に座るかという合意形成が行われたように思えたからだ。このことについて、僕は確信に近い感情を抱いている。

「眼は口ほどにものを言う」とはよく言ったものだ。コミュニケーションは、文字や口頭といった明確な意思の伝達に留まらない。

そして、文字や口頭では伝えきれない、伝えることが難しい感情があることも、事実なのだろう。

だから僕は、(文字や口頭での)言葉の力を信じている一方で、その限界も強く感じているのだった。

言葉がすべてを伝え得る(伝えなければならない)と思うのは、極めて傲慢なのではないか、と。

たとえば愛する誰かに、他に愛する人がいたことを知ったとしよう。そんなときに発する

わぁ、素敵だね。きっとお似合いだよ。がんばってね。

という言葉の裏にある感情を、僕たちはどこまで汲み取ることができるだろうか。

言われた当の本人は、きっと気づかないだろう。それを聞いている周りの人だって、場合によっては気づくことができないのではないだろうか。

けれどもきっとその人は、どうにもならない負の感情を、正の言葉の中に押し込めて押し込めて、「素敵だね」、「お似合いだよ」、「がんばってね」という言葉を発したのである。

そんな人に、「なんでその時に正直に気持ちを伝えなかったのか」などと言うのはあまりにも無神経なのではないか。僕はそんな風に思うのだった。

この例はひょっとすると極端なのかもしれないが、こういった、言葉にならない感情を押し込めた偽物の正の言葉は、世の中にありふれているのではないだろうか。

あるいは、言葉にすらできないこともある。


調査でインタビューをすると、誰が聞いたのか(=誰に聞かれたのか)によって語りが異なることがある。ナラティブ研究の世界では、そのことを、語りがそもそも2人の関係性の上に成り立つ、「いま、ここ」に依存するものだと考え、肯定する傾向にある。

もしかしたら上の例も、2人の関係性が違ったら、あるいはその場に2人しかいなければ、異なった語りになったかもしれない。その人は相手に、自分の気持ちを打ち明けることができたかもしれない。

どうやって我々は、有するすべての感情をあらゆる場面において言葉にすることが可能だ、あるいは言葉にしなければならない(そうでなければ伝わらない)などということができようか。

そんな風に思ったのは、今日子どもとのとある出来事があったからだった。

その子は、授業がはじまってすぐに僕が発した「辞書のない人はいますか」という言葉に応答しなかった子どもだった。僕はその子は辞書を忘れていないのだろうと判断して、授業を進行した。

その子が辞書を忘れたと気づいたのは、英作文をするときに辞書を使わず、加えてあまり書くことができていなかったからだった。

僕が「辞書がないの?」と尋ねたら、その子は「ないです」と答えた。

「さっき忘れた人って聞いたとき、反応しなかったよね?」と僕は尋ねたのだが、言ってから僕はその言葉に後悔したのだった。それは、その言い方が「なぜ意思表示をしなかったのか」という刺を含むものだったからであり、その子がなぜ言葉で意思表示できなかったのかというところまで考えが及ばなかったからでもあった。

もしかしたら言葉以外のところで(表情などで)意思表示があったのかもしれない。けれどもそんなことには意識が及ばないくらい、僕の関心はなぜ「言葉」で意思表示をしなかったのか、というところに集中していた。

この例は、先ほどの恋愛の物語と異なるものだろうか。見方によってはそうなのかもしれないが、僕は類似していると思っている。

正の言葉の中に負の感情を押し込めた先ほどの発言とは異なり、今回の例はそもそも言葉にできなかった例である。けれども、自分の感情や意思を素直に、シンプルに言葉にすることができないという点では、同じだという風にも捉えられるだろう。

そしてそのことを半ば詰問するような姿勢をとってしまった僕自身に対しての自戒を込めて、このnoteを書こうと思ったのだった。

ジャーナリストであり哲学博士でもあるカロリン・エムケ(Carolin Emcke)の著書『なぜならそれは言葉にできるから』(浅井晶子 訳)は、僕に語るということがどういうことであるのかを、そして同時に言葉にすることの現実世界における可能性や限界を考えさせた。

自身の(壮絶な)体験を語る人たちの存在と、語らない人たちの存在。

沈黙は不変的に沈黙であるのではなく、時にはダムが決壊したかのように言葉が溢れ出すことがある。そうさせるものはなんであるのか。逆に言えば、沈黙を沈黙たらしめるものはなんであるのか

エムケは、国際裁判における性暴力の被害者の沈黙に関する節の中で、語ることが可能か不可能であるかが語る相手や文脈に依存することを記している。そして被害者が決して語ることができなかったことを沈黙の理由にしていないことに着目している。

この国際裁判の中で、被害者の1人は最初に受けた性暴力について口を開こうとしなかったことを、他のそれ以降のあらゆる性暴力と区別していたのだ、とエムケは書く。そしてそれほど、「最初の一撃」のインパクトが大きかったがゆえに、「世界への信頼とでも言うべきものを手放す」ことになるのだと言う。そして「世界への信頼を打ち砕かれた人間が、なぜ再び他者への信頼を取り戻さなければならないのか」と問うのだった。

この性暴力の例はひょっとすると、辞書の例や愛情の例と比べるといかにも深刻であるかもしれない。けれど、なぜその時、その人は自分の感情を言葉や文字にして語ることができないのかを考えるならば、その人と他者や世界との関係性、あるいは「最初の一撃」の持つインパクトを考えずにはいられない。

もしかすると、今日のその子どもは、以前なにか忘れ物をしてどこかで酷く叱られたことがあるかもしれない。傷ついたことがあるのかもしれない。あるいは愛情を伝えることができなかった人物は、単に躊躇したということに留まらず、気持ちを素直に伝えた結果関係性が悪化したことがあるのかもしれない。

いずれにせよ、僕の例で考えるならば、あの時僕がその子どもに(あるいは自分自身に)問わなければならなかったのは、「なぜ意思表示をしなかったのか」ではなく「なぜ意思表示をできなかったのか」だったのであろう。

それをいかにも意思表示ができないことが不十分で悪であるかのように判断したことを、少なからず後悔しているのだった。

「なんで言ってくれないのか」「なんで伝えてくれないのか」と相手の曖昧な態度や感情にフラストレーションを溜めることはあるだろう。

けれどもその裏にどのようなエピソード(最初の一撃)が隠れているのか、その人物がどんな体験をしてきたのかを、我々は十分には知り得ないこともまた、事実だろう。

「気持ちや意思は伝えてくれないとわからない」のではなく、自身の聞く態度が語るものの語りを可能にしているのか、問い直すことが必要なのではないだろうか。言葉や文字で伝えることが難しい感情があるからこそ、その感情を言葉や文字で伝えることが可能になる空間を、構築していかなければならない。

『なぜならそれは言葉にできるから』の訳者、浅井晶子は、後書きの中で『なぜならそれは言葉にできるから』という表題が「なぜ」ではじまるなんらかの問いの答えになっていることがこの本をより印象深いものにしていると指摘する。

「なぜ語ろうとするのか」「なぜ耳を傾けるのか」「なぜ伝えていくのか」−−−これらの問いに対し、「なぜならそれは言葉にできるから」と私たちひとりひとりが答えることができる、そんな社会のあり方を目指す、エムケの希望の詰まったタイトルなのだと思う。

僕はそんな風に言葉にできることの意義や意味を感じながら、すべてを言葉にすることができなくても、もしかするといつか誰かと言葉にすることができるようになるかもしれない、そんな日が来るかもしれないという希望を抱きたい。

それはきっと、聞く側に責任の一端を押しつけるというような正義の闘いではなく、話し手と聞き手の関係性によって言葉のもつ限界は超えていくことができるという、そんな希望でもあるのだと信じている。

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