マチネの終わりに



遅ればせながら、ようやく読み終えた。クラシックギタリストと美人ジャーナリストの切ない恋愛小説。だが、これは単なる恋物語として読むのではなく、おそらく多くの人にとって忘れかけていた優しさや純粋な感情をそっと届けてくれる手紙のような役割を担っているのかもしれない。特にあの震災以来、日本人はとても疲弊してしまっている。自分では気づかないほどに

主人公の蒔野と僕の年齢が割と近いことやギタリストという設定が自分と重なり、おそらく普通の人よりも主人公に感情移入することができたと思う。でも、ここまでギターが注目される世界はちょっと非現実的だなと思いながらも、この美しい言葉と物語の海に最初から最後までフレンチトーストのようにじっくりと浸ることができた

そして、もう一人の主人公であり蒔野の恋人・小峰洋子の存在なくしてこの物語は成立しないだろう。洋子は有名な映画監督と日本人女性との間に生まれたハーフで容姿端麗で高い知識と教養を備えた女性。おそらくほとんどの男は「手の届かない美女」みたいな憧れの目で見るのではないだろうか

この物語には「過去は変えられる」という一つの主題、つまりメロディが流れている。

例えば、僕はこの記事を書いた当時はまだ「マチネの終わりに」を読んでいなかった。「アランフェス協奏曲」はロドリーゴが作曲し、後にジム・ホールやマイルス・デイヴィスといったジャズ界の巨匠たちがカバーした楽曲だった

しかし「マチネの終わりに」を読み終えた今は違う。僕の中の「アランフェス協奏曲」は「『マチネの終わりに』で主人公が演奏していた楽曲」にすっかり更新されてしまった。つまり過去が変わったのだ。いま(未来)が変わることによって。これからもジム・ホールやマイルスの「アランフェス協奏曲」を聴くことになるだろう。でも、そこには必ず「マチネの終わりに」という新しい同居人が加わることになる

小峰洋子と映画監督の父親の関係性は複雑だが、僕はそんな二人にある人物たちを想起させた。それはラヴィ・シャンカールとその娘ノラ・ジョーンズだ。知ってる人もいるだろうけど、ラヴィ・シャンカールは世界的なシタール奏者でノラ・ジョーンズもまた偉大な歌手の一人として活躍している。しかし、ラヴィ・シャンカールはノラが3歳の時に離婚し、ノラは母親に引き取られたので父ラヴィとの関係は複雑で彼女もあまり語りたがらない


ノラが歌う「D'ont know why」と洋子が小説の中で「なぜなのかしら」と自問するシーンがピッタリと重なる。この曲はまるで洋子の気持ちをそのまま代弁しているかのように読み終えた人の胸にブスリと突き刺さるに違いない

「どうして行かなかったのだろう」と、「心をワインで満たしても、あなたを忘れられはしない。いつまでも。」と歌うノラが小説の余韻を延命措置を施す医師のようにいつまでも引き伸ばす。この本を読み終えた時、僕は「この夜が終わってほしくない」と唐突に思った。なぜかはわからないけれど、とにかくそう思った

もしかしたら運命は決まっているのかもしれない。未来は変えられないのかもしれない。でも、過去は変えられる。今が変わることによって。今が大切なものになれば、過去も大切なものに変わる。運命は時に人を絶望させもするが、同時に希望も与えてくれる。イエス・キリストとマグダラのマリアの出会いが運命であったように、あなたがこの本と出会うことも運命でありますように。



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