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草木と生きた日本人 桜 上

一、序

 ももしきの 大宮人は 暇あれや 梅をかざして ここに集へる (『万葉集』巻十・一八八三)
 (ももしきの大宮人は暇があるからでせうか、梅を髪にさしてここに集つてゐますねエ)

 前回は梅の花についてお話ししました。
 二月五日、東京では久しぶりに雪が降りました。雪の降る日、そして翌日の積つた雪、さらに雪と梅の花の咲く姿を見て、前に紹介しました、

 我がやどの 冬木の上に 降る雪を 梅の花かと うち見つるかも (巻八・一六四五)
 (私の家の冬枯れの木に降り積ちた雪を、梅の花だらうと目にとまつたことよ)

の歌や、

 我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも(巻五・八二二)
 (私の家の庭に梅の花が散る。空から雪が降つて来るのでせうか)

の歌を思ひ出された方もをられませう。
 さらに梅といへば『古今和歌集』の仮名序に、

 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
 (難波津に咲くよ、この花は。冬の間、寒さに耐へてゐたけども。今は春になつたと咲くよ、この花は)

といふ王仁が作つたとされる歌があり、花は梅とされてゐます。和歌の手習ひをする人がまづ習ふ歌とされました。

 三月になり、少しずつあたたかくなつてきましたね。いよいよ、現代人が春を実感する季節が近づいてきました。春といへば、桜の花。卒業式での桜を連想される方もをられませう。
 今回は、桜の花についてお話しいたしませう。そして、特に万葉時代の素敵な歌から古へ人がいかに桜の花を愛してきたかを考へてみませう。

二、桜と『万葉集』

 まづは、いつものやうに『日本国語大辞典』で桜を見てみませう。

 「バラ科サクラ属のうちの一群。落葉高木または低木。北半球の温帯ないし暖帯に分布し、特に東アジアに多く、数十の野生種がある。花はふつう春に咲き、葉の展開に先だって開くことが多い。淡紅・白などの美しい五弁花で、八重咲きのものもある。古くから和歌や絵画にとり上げられ、現在日本の国花とされる。観賞用に古くから栽培され江戸時代以来おびただしい数の園芸品種が作られた。材は版木、家具、建築、造船などに使い、樹皮は強靱なので細工物に用いたり、曲物まげものの綴じ目に用いたりするほか、漢方で鎮咳、袪痰薬に用いる。塩漬けにした花や蕾は桜湯にして飲み、ミザクラ(オウトウ)の実はサクランボと称して食用にする。ヤマザクラ、サトザクラ、オオシマザクラ、ソメイヨシノ、エドヒガン、ヒガンザクラなど。」

 万葉の時代、もつとも歌に詠まれたのは萩の花であり、梅の花であることは前に記しましたね。しかし、だからといつて桜の花が軽く見られてゐたわけではありません。
 まづは次の長歌と反歌をお読みください。

 をとめらが かざしのために
 みやびをが かづらのためと
 敷き坐せる 国のはたてに 
 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに (巻八・一四二九)
 (をとめたちがかざしにするやうに、風流な男性たちがかづらにするやうに、天皇が統治なさる国々の隅々まで咲く桜の花の美しさよ、嗚呼)

 反歌

 去年(こぞ)の春 逢へりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも (巻八・一四三〇)
 (昨年の春に逢つたあなたに、恋ひ続けてきた桜の花は、今こそ逢ふことができたさうですよ)

『万葉集』中には多くの謎の人物がゐます。それは後の世に歌聖と讃へられた柿本人麻呂もさうですが、山部赤人や山上憶良などもさうです。上の歌は、謎の人物の一人である若宮鮎麻呂によつて伝誦(代々伝えてとなえること。また、口から口へととなえ伝えること)されました。
 歌中の「かざし」は髪にさす飾り、「かづら」は髪に巻きつけて飾りにするものです。
 また、「敷き坐せる」の前には「やすみしし わが大皇の」などの言葉が省略されてゐると考へられます。「敷く」に「坐す」といふ尊敬語が付いてをり、明らかに天皇を示す語です。
 最後に、「はも あなに」の感嘆詞を重ね、単純ですが、とても美しく、上代を生きた古へ人の姿が自然と想ひ浮かぶ長歌です。
 桜の咲く頃、私はこの歌を口ずさむことを常としてゐます。

三、風にな散らし

 上の一首だけでも、万葉の時代を生きた人々の桜への愛情を汲み取ることができませう。しかし、心もとなくもありませんので、もう一首の長歌と反歌を見てみませう。

 白雲の 龍田の山の 滝の上の 小桉(おぐら)の嶺に 咲きををる 桜の花は 山高み 風し止まねば 春雨の 継ぎてし降れば ほつ枝は 散り過ぎにけり しづ枝に 残れる花は しましくは 散りな乱れそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで (巻九・一七四七)
 (白雲のたつ龍田の山の急流のほとりの小桉の嶺に、枝をたわめて咲く桜の花は、山が高いので風がしきりに吹くから、春雨がたえず降るから、上の方の枝はすでに散り果ててしまつたことです。下の方の枝に残る花は、しばらくの間は乱れ散らないでおくれ。旅に行く方が帰つて来るまでは)

 反歌

 わが行きは 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし (巻九・一七四八)
 (私どもの旅は七日を過ぎることはありますまい。だから龍田彦の神様、この美しい花を風に散らさないでください)

 この歌は、「高橋虫麻呂歌集」に収められてゐたさうです。神亀三年の藤原宇合の難波宮造営の時か、また天平六年三月十日の聖武天皇の難波宮行幸の折か、諸説あるところですが、正確なことはわかりません。龍田山を越えて行く場面です。龍田彦は、風を司る神様です。長歌よりも反歌が素敵です。切実にして、今を生きる私どもに迫るものがありませう。
 この歌が高橋虫麻呂によつて作られたと断定することはできませんが、散るの惜しみ、龍田彦に心なき風を吹かさないやうに願ふところに桜の花への愛惜がありませう。なほ、高橋虫麻呂も謎の歌人です。しかし、彼にも素敵な歌がたくさんあります。

四、あに恋ひめやも

 最後に、桜の花の歌を二首ばかり見てみませう。
 あしひきの 山桜花 日(け)並べて かく咲きたらば あに恋ひめやも (巻八・一四二五)
 (山桜花が、何日もこのやうに咲くならば、どうしてこんなにも恋ひこがれよう)

 山部赤人の歌です。満開の美しさが何日も続くならば、こんなにも恋ひしく思はないのに、といふ心情を詠んでゐます。
 次の歌を見てみませう。

 春雨の しくしく降るに 高円の 山の桜は いかにあるらむ (巻八・一四四〇)
 (春の雨がしきりに降る中、高円山の桜はどうなつてゐるだらうか)

 河辺東人の歌です。春の雨に花が咲く例と、散る例があり、どちらともわかちがたいところがありますが、桜の花を恋ひしく思ふ気持ちは感じられませう。

 万葉の時代、桜の花はその美しさが歌に詠まれました。それは後世に見られるやうな「花は桜木、人は武士」といふやうな精神性や、桜が花の中で突出してゐるといふやうには考へはありませんでした。
 次回は、『万葉集』の時代から平安時代、江戸時代に桜の花がどのやうに愛されてきたかその概要を見て行きませう。



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