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「月が綺麗ですね」のように同じモノゴトを見ていたい

先日のストロベリームーン。川沿いの帰り道、夜空に浮かんだ赤い月を拝みました。月って、キレイです(語彙力)

「月が綺麗ですね」

かの夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と和訳した話を思い出しました。諸説あるらしいですが。

行間に込めたメッセージと受け取れるこの言葉。今こんなふうに伝える人もいないのかな?でも、とても豊かな表現じゃない?など、せっかくなので、思考を巡らせてみました。

コミュニケーションの構図

月が綺麗という感想を、他人と共有する。それが愛のメッセージになるとは、どんなコミュニケーションか。雑に図にすると、こんな感じでしょうか。

「図が雑ですね」

という夏目漱石の声が聞こえてきました…笑

ふたりで月を見ながら、暗に共感している状態を言葉にして伝えている。うまく言えてないので書き直すかも。けど、意味を知れば、奥ゆかしさと歯がゆさを感じる。こんなふうに、言葉はなくとも伝えることができる、と分かります。

ただ、言葉だけを切り取るとよく分からない。月が綺麗なら「あー綺麗だねぇ」って、そのまま受け取ってしまうように思いませんか。これがいいのかわるいのか。

ただの言葉をメッセージに変える共感

まず、何が「I love you」を「月が綺麗ですね」にさせたのか?

気恥ずかしさか(作家は語らなくても「分かるだろ?」と言っていたらしい。)、普段の男女の会話がそつなくて特別なメッセージになるのか、言葉以外のシチュエーションが最高なのか、過去の経験がそう感じさせたのか。他人には理解しづらい部分もありそうです。

単なる「月が綺麗だ」という感想が、強いメッセージになることもある。そうさせた要因は、おそらく他者との共感にある。と思います。

テキストから抜け落ちるモノゴト

話を現代に戻すと、私たちは普段からLINEやチャットなどテキスト主体のコミュニケーションをしています。一人称で、直接的で、論理的で、必要性のある会話が重視されます。向かいあって、無骨な言葉を交わして、合点のいく結果を求めます。無駄や回りくどい表現はあまり求められません。

ただ、この図のように直接言い合っていても、お互いが見ている相手は、自分の色眼鏡が写した相手。自分を100%理解している他人がいないように、自分もまた他人を理解していないと言えます。

最近「当たり前の」「普通は」「ちゃんと」といった言葉で戸惑うことが多いのですが、もちろん不備や不足のハッキリした場合はあっても、どこかでこんな構図が招いているのでもないかと考えたりします。何が当たり前で、何が普通で、何がちゃんとしていることなのか。「何が」、先の話で言うところの「月が」、つまり共感できるモノゴトが抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。

もし、お互いが真剣に(頑なに)考えるほど、お互いに疲弊してしまうなら、自分と相手の間にあるものを探してみるのがいいのかもしれません。僕は探したい。

無理な適応より、同じモノゴトを見ていたい

なんとなく、他者との共感やそれを生み出す構造について書いてきました。ザッとまとめるとこんな感じでしょうか。

・言葉がなくとも、共感を伝えあうことができる
・お互いが見ている相手は、自分のなかの相手
・共感にはモノゴトの共有が必要

同じモノゴトを見ていたら、お互いに分かり合えるような気がします。それは、言葉や論理に限らなくても。無理に主導権を握らなくとも。相手を非難せずとも。自分の正しさを言い張らずとも。無理に集団に適応して心を殺さなくても、それは自然とできること。そして自然に続けられることです。

たとえば先日の月のように、日常のなかで、共感できるモノゴトが見つかるかもしれません。恋人や家族、周りの人と、たくさん見つけたいですね。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。