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【短編小説】20xx.04.09

帰宅した私は玄関の鍵を開け、電気をつけずに立ちすくんでいた。真っ暗な部屋の中イヤホンをつけたまま玄関から動けないでいる。
個人練習のために借りたルームから帰宅した時のことだった。


死にたいと思い浮かんで離れない時がある。
どうしてなのかは分からない。
日常生活で特別思い悩んでいることがあるわけではない。そりゃ死にたくなるくらい苦しかった出来事もあったにはあったが、それはとうに過去のものだった。今の自分はかなり恵まれた環境のはずだ。

なのに、ふと楽器を吹いている時に死にたくてたまらなくなる。その思いだけが頭を埋めつくして、思わずマウスピースから口を離さずにはいられなくなる。もう何も言いたくなくなるのだ。

先輩が死んでから2年が経った。
あの日の悲しみは心の底に澱んではいるが、たまに心がかき混ぜられた時にふっと欠片が浮かぶくらいで、そこから何も手につかなくなるあの頃とは違いこの感情にも自分なりに向き合って前に進んできたはずだ。

なのになぜ、こうして死にたくてたまらなくなる日が来るのだろう。
時折、心だけがどこかに置き去りになったように呆然としてしまう日がある。

私はしばらく暗いままの玄関に立ち尽くしていたが、仕方なく電気をつけた。ドアを開け部屋に入りながら、コンビニで買ったばかりのボソボソしたパンを雑に何口か食べて飲み込んだあと、一人椅子に埋もれたまま目を閉じる。


しばらくそうしたあと、私は机の上にあったメモ帳に目をやった。そのまま何も考えずに傍にあったペンを握る。思いつくままに書き出す。
書けば前に進めるのではないか。そんな淡い期待のような何かを信じて書き出した。

本当は分かっている。
楽器が上手く吹けないことや、吹けないことで周りに迷惑をかけているからこんなに必要以上に気が落ち込んでいることも。
そこに畳み掛けるように先輩がいない悲しさをふと思い出してしまって、余計にぐちゃぐちゃになっている、いや自分からぐちゃぐちゃにしていることも。全部わかっているのだ。

私はあの日の先輩が望んでも得られなかった毎日を過ごせているというのに、なんと情けなく日々を生きているのか。
そんな風に頭でっかちになって、周りが見えなくなってさらに心配をかけて、情けなくて、ここで腐っている場合ではないと思っているのに。
心だけがずっと遠くの岸辺にあった。

ここまでひとしきり書き終え、言葉が一旦出尽くした。顔の筋肉の吹きすぎたときの強ばりだけを感じたまま、静かにメモをみた。

……こんなもの誰にも見せられない。
私はカバンから半端に飛び出しているノートに、今書いたばかりのメモをてきとうに挟んだ。ページの端がグシャッと折れる。

私は心がどこかに置き去りになったようだ、と書いたが。
本当に遠くにあるのは「これで良かったんだ」と思える納得感なのではないか、とふと思った。


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