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2021/09/02

今日は隣の部屋のアラームで目が覚めた。
妹がかけていたものらしく、私は夢から引きはがされて急に現実世界に召喚された。
実に3分は鳴り響いていたアラームを止めると、妹はリビングでニコニコしながらくつろいでいた。
弟は高校、親は働きに行っているので、今日は夕方まで2人で過ごすらしい。
中学校が変則的なリモート授業になっている妹は「学校は?」と聞く私に、満面の笑みで「行かなくていいの」と告げた。

リモート朝礼を済ませると、妹は着ていた体操服を無造作に脱ぎ捨て、部屋着に変身した。
私も寝間着から部屋着に着替えて、朝食を取る。
妹がPCを落としたので「1時間目は?」と聞くと「ないよ!」とのこと。
妹曰く、朝昼夕に無事を確認される以外は与えられた課題をこなせばいいそうだ。
中学校での成績が (私の受験大成功のプレッシャーもあって) 今のところ優秀だからか、理科の学習を放りだしてTVにスマホを接続、Youtubeを見始めた。
リモートになると堕落するところまで私とそっくりだなと思った。



今日特にやることのなかった私は、妹と戯れつつにゃんたこさんのエッセイを読み進めた。
1章までのふざけた雰囲気は徐々に鳴りを潜め、にゃんたこさんの心の奥の方へと分け入っていた。
トラウマについて書いた節。
PTSDとまではいかなくとも、誰しも大なり小なりトラウマを抱えているものだと思う。
にゃんたこさんはカエルにトラウマがあるらしい。
それは小学生の時に心に巣くったものなのに、30を過ぎた今でもたまに顔を出し、心を焼くそうだ。
恐ろしくなった。
心に負った傷というのは、そんなにも癒えないものなのか。
もちろん個人差はあるだろうが、私の場合は時間による自然治癒にはあまり期待できないだろうな。

そんなことを考えていたらふとある日付を思い出してしまった。
つい最近、心の中で別れを告げた友人の誕生日。
私と同じ冬の日だから覚えていたのだろうか。
それともまだお別れしてから日が浅い故の発作なのだろうか。
元恋人で、現在は親友になった人でも、私は別れた後には誕生日を忘れていた。(今はしっかり覚えている。)
一番好きになった人の誕生日も忘れていたのに、あの人の誕生日は一度聞いただけで記憶に留まった。
それが何かのきっかけで (恐らくはSNSの更新を意図せずに見てしまったことに起因して) 心の表層に出現してしまった。

嫌だった。
もう永遠に会う事もない。
会いたいとも、話したいとも思っていない。
仲直りしたいと思わないわけじゃないけれど、今更前みたいに笑うなんて私はできない。
もしもその人から連絡があっても、今の私は生返事のほか何もできないだろう。
限りなく確かで決定的な何かが必要なくらい、私たちの関係は冷え切ってしまった。
「ごめんねって言いたかっただけ!」という向こうからの一言と、私の謝罪やらなにやらで修復した元恋人との関係とは別。
「壊れて」しまったのではなく、「冷え切って」しまったのだ。

けれど誕生日は覚えているのだから、なんとなく祝わなきゃいけない感じがする。
私はめったに他人に誕生日を明かさない。
教えたからには忘れてほしくないという身勝手な思いがあるから。
自分がそうなら、人にもそうあるべきだと思う。
でも、きっと相手は望んでいないだろうし、私だって嫌われているとわかってて声をかけることは望まない。
誕生日きっかけに冷え切った関係を温めることができると言えるほど、私は楽観していないし、それを心から望んでいるのかと聞かれると、わからなくなる。
そんなら祝わなくていいじゃないか。
というか私のためにも祝うべきじゃない。

思考の海に溺れていることに自覚した私は、そこで無理やり自分を捕まえて、現実に引き戻した。
私にとってこの別れがトラウマにならなければいいな。
新しい友人との出会いや、その思い出が傷を癒したものだと思っていた。
けれど、今みたいにふとした瞬間に海から顔を出しては、私を深海まで引きずっていこうとする。
はっきり言ってそんなものは邪魔だ。
色んなことの足かせになる。
忘れてしまうことはできないだろうけれど、心を焼くのは勘弁してほしい。


あの瞬間の私は「メンヘラ」と呼ばれる人になっていた気がする。
私は別になんとも思わないけれど、人によっては近づくことすら嫌がるメンヘラ。
私も高3の秋から入試が終わるぐらいまでは (軽い意味での) メンヘラだった。
人をメンヘラと呼ぶことは差別にあたるのだろうか。
心を病んでしまうことは誰にでも起きることだ。
メンタルの強さは個人的には素質な気がしていて、それによって回復と回避をどれくらい慎重に行えばいいかだけが人によって違うだけで、壊れることは誰の身にも簡単に起こると思う。
コロナやその他病気に罹患すること、何らかの障害を持って生まれること、HSPなどの気質を持っていることだって誰の身にも起こる。(というかそもそもネガティブなことなのかどうかも人それぞれだと思うけれど。)
けれど、それを忌避して蔑んだ言動を取れば「差別主義者」として「常識人」から区別される。
世論からの風当りは厳しくなるだろう。
そもそも差別と区別の線引きは何によって行われるのだろうか。

差別は行うと社会的制裁が加えられる。
区別は行っても何ら制裁はない。
黒人の差別は社会問題になるが、肌の色の区別それ自体はそこまで大きく問題にならない気がする。

差別は何か不当に不利益を与えるニュアンスが含まれている気がする。
区別は正当な理由を持って、分類しているだけな気がする。
女性であるという理由だけ (本当にそれだけ) で雇用の機会を奪うことは恐らく批判を浴びるが、男女でトイレを分けることには反対する人は少ない印象を受ける。

差別も区別も主観でしかないのかもしれない。
結局は全て「区別」が包括していて、そのうち「社会的にやってはいけない区別」や「不当な区別」、「当事者は嬉しくない区別」が差別と呼ばれて、その線引きは個々人によって違う。
だから「これが差別です」という画一的な基準は永遠に示せない。
信頼区間じゃないけれど「これはダメかなあ」というのを各自で考えていくしかないのかもしれない。
だからそもそも「客観的」な議論は不可能で、各々の「道徳」という純度100%の主観に依ってくる。
その主観の寄せ集めの外側 (?%信頼区間の外側) を社会の定義する「差別」として、そこに該当するものには制裁を加えていくのかもしれない。
これが私の一応の結論だ。
難しい問題だな。
「答え」なんて一生出ない。
だからこそ、たまにでもいいから考えていくことが大事と言われるんだろうな。
そうやって、社会はいいものになっていく。(こう言うってことは私は社会に不満を持っているんだろうな。)

様々な生きづらさは、きっと人類がおしなべて抱えているもの。
私みたいなくだらないものから、誰かの助けが常に必要な重大なもの、今すぐに手を打たなければいけないものまで。
それら全部を解決するなんて無理な話だけれど、人間である以上、せめて同じ人間には優しい世の中になってほしい。

遊び疲れてスヤスヤ寝ている妹も、屈託のない笑顔の裏に何かしら抱えているんだろう。
妹は私と性格や考え方が似ている。
びっくりするくらい似ている。
だからこそ、私のような生きづらさを感じないで生きていってほしいと思った。



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