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言葉という発明品の限界を見る

作家を生業にしておいて気づいてはいけないことかもしれない、あるいはいつかどこかで気づいてからが本番なのかもしれない。

言葉って有限で、圧倒的に狭い。

スピリチュアルな分野で、チャネリングした情報をまとめて1冊の本を出すまで書き留めるひとを尊敬する。
私はどうしても、それができないことに気づいてしまった。

いや、やっていると言えばやっている。

私にはアポロンとの会話をまとめたマガジンがあるし、観念的な情報もたくさん入ってくる。情報を受け取っていることを意識し理解はしている。

けれどもそれを言葉という限定的範囲で固定することが、どうしてもできない。

既存の言葉、私が知っている言葉を当てはめて考えようとすると、途端にそれは受け取った不定の形を失ってしまうのだ。

宝石を美しい形に削るとき、大量の削られた粉が出るように、ある時は粉の方が多数を占めるように。言葉にできない部分が圧倒的に多すぎて、どんな言葉が的確か考えても「どれも違うな」という結論に達さざるをえない。

言葉にこだわる私は、以前はそれでも無理矢理言葉にしようとしていた。できるだけ的確な言葉を選んで、とにかく受け取った印象の一部分だけだとしても……見て、読んでいつでも思い起こせる形にして残しておきたくて。

けれども最近、特にここ数日は、それをやめた。

観念的な、形も言葉も持たない情報が入ってくるに任せている。情報に言葉という形を与えて押し留めることをせず、流れ去るものは流れ去るし、心の中で受け取った印象が、目に見えないどこかにそれとなく記憶されればいいかな、くらいの気楽さでいようと努めている。


私は忘れるのが怖かった。

知識は貴重だ、情報は貴重だ。知ったぶんだけ成長できる気がする。だから見聞きしたものをひとつ逃さず記憶していたい。何も忘れたくない。

そう思って、覚えておきたいことはなんでも言語化することに固執してきたけれど、今もこうやって言葉で記録しているけれど。今は「どうしても言葉に置き換えられない感覚が存在し、絶対に言葉に収まらないこともある」という体得した事実をこそ忘れないでいたいと思っている。

意識を遊ばせていれば絶え間なく情報が入ってくるのに、私がそれを言語化して記憶しようと思い立って頭の中で翻訳を始めた途端、情報の流れは何度も止まってしばらく戻らなかった。ショックだし、もどかしかった。

当てはめようとした言葉はどれも正確には感じられなかったし、より正確な言葉、もっと「これだ!」と思える単語について考えるほど情報の流れから遠ざかっていくのが分かった。


人間が1日に数万個もの自動思考を垂れ流すのを止めて、もっと意識的に思考しようという考え方もある。

私は「考えるのをやめる」というより、「言語で思考するのをやめ」た。
そうしたら情報の流れを常に感じられるようになってきた。

引き寄せの法則にハマって、スピリチュアルという界隈を知ってから12年経つ。本質的な情報は変わらないはずなのに、腑に落ちるほどの自然な理解に至るまでこんなにかかるなんて。


周囲は言葉と文字で溢れている。人間は言葉を獲得するとその言葉を土台に思考する。

何も意識せずに生きていたら、言葉は完璧で、なんでも表現できてしまう万能な道具だと思い込んでしまう。

けれどもよく考えれば、言葉とは人間の発明品だ。
先に存在していたのは人間のほうであり、人間の思考だ。

どんな発明にも、どんな存在にも長所と短所があるように、言葉にも「限界」という短所があるのだろう。言葉は完璧じゃない。


言葉を扱う分野にいる私は、これからも言葉をこねくり回して物語を書くだろう。伝えたいことをつづってネットの海に流すだろう。

同時に言葉というツールのふちに佇んで、明確な言葉を与えられない観念を眺めてはひとり時間を過ごすだろう。

なんとかそれらを捉えて、人に伝えるべく言語化しようと躍起になっていたときより、ただ眺める私はちょっとだけ自由を覚えている。

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