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この数ヶ月就職活動をする中で、自分の過去をオブラートに包みつつも話さなければならない時がある。
辛い記憶のため、泣かずに話すだけで精一杯で、それ以降何を話したかあまり覚えていない。

公的機関でも同様に説明をした時、担当の方が、「あー!わかるわかる!私もそうだったよー!私の場合はこうでね…。」と明るく話し始めた。病名や経緯は違えど、おそらく同じように病院に通い、治療をしていたという意味で共感を表してくれたのだろう。しかし私は自分の心の傷がその時疼くのを感じた。

私の傷はなくなっていない。確かに存在する。

その方は私の経験を「わかる」と仰った。
でも私は、「その方の苦しみが私には到底想像がつかないからわからない」と思ってしまい、ただ愛想笑いしかできなかったのである。

その一件から、血を流すほどではないものの、心の傷が疼き、化膿一歩手前のような状態になっていた。

そんな時だった。

いつも行く書店の全然目立たない場所に『書店員の推薦本』のコーナーがあった。階段の踊り場に作られた、誰も気に留めない小さな小さなコーナー。私はその本のタイトルに心を奪われたのである。

著者は精神科医として臨床をおこないながら、トラウマやジェンダーの研究をされている宮地尚子さんという方だ。
ぱらぱらとめくっていると、以前noteにも書いたヴァルネラビリティ(脆弱性)という言葉が目に飛び込んできたので、買って読んでみることにした。

買ったはいいけれど、傷がえぐられるのではないかと心配になり、何日もなかなか読み進められずにいた。が、読んでいくうちにそれは杞憂だったと気づく。

著者は精神科医として様々な患者と向き合ってきた。ただ、トラウマの専門家であっても全能の神ではない。著者は専門家であるが故に、患者に対して何もできない無力感や罪悪感を抱くことを正直に告白している。

傷として名づけること。手当てされた風景を残すこと。それでも「何にもならないこと」もあるという事実を認め、その「証」を残すこと。

宮地尚子『傷を愛せるか』 2022.筑摩書房 P.222

専門家だって傷つくし、慣れることはないのだ。専門家としての限界を認めた上でトラウマを抱えた人たちにできることは、「幸せになりますように。」と祈り、それが相手に伝わることを願うことだと書いている。

この誰かの祈りはトラウマを抱える人たちにとって大きな励ましになるだろう。
きっと私のことも友人や両親、支援をしてくれている方たちや先生たちが、著者のように祈ってくれているのかもしれない。
その声にならない祈りは、きっと私の回復を支えてくれていると思う。


この本の帯にはこんな言葉が書かれている。

弱いまま強くあるということ

一見矛盾しているようだが、私にはとても納得のいく言葉だ。

私は最初の被害にあって以来、「自分は被害に遭っても仕方のない人間」として生きてきた。そうなると人間としてや女性としての脆弱性が増してしまい、被害に遭い続けてきた過去がある。

自分の心の傷に気づいた時にようやく被害から抜け出せた。

傷を認知することはとても辛い。
自分が弱く、何もできなかったことに気付かされるからだ。

タイトルのように私は自分の心の傷を愛するか?

私は傷を愛せない。

だが、存在を認めて、触れられようにはなった。
自分の傷を、自分だけはなかったことにしないようにと思っている。

くりかえそう。
傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷の周りをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生きつづけること。

宮地尚子『傷を愛せるか』 2022.筑摩書房 P.226

私は傷を愛せない。
だが、弱くて、傷を負った自分を愛そうと思う。
この傷は無くならない。人に何か言われれば疼くような傷だ。その傷と私はずっと生きていく。強がりでもなんでもなく、その気づきと覚悟が弱い私を強くしてくれたと思う。

そしていつも優しく見守ってくれている友人や医師、カウンセラーの先生、支援の手を差し伸べてくれる方々に感謝を。その祈りは私には確かに届いている。

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