赤い恐怖

 ほんの少しのおしゃべりのつもりだったのに、気がつけば一時間を越えていた。先月越してきたお隣の奥さんはわたしと同い年で気が合うものだから、ついつい。
「ナナちゃん、ごめんね。お利巧にしてた?」
 六ヶ月になるわが子に声をかけながらリビングにかけこんだわたしの目に入ったのは、もぬけの殻のベビー布団だった。
「またかくれんぼなの。はいはいが上手になったのはえらいけど」
 ダイニングに通じるドアが半開きになっている。さては、とわたしはポンとドアを押し開く。今日はどこから飛び出してきてくれるかしら。
 わたしの声が聞こえたら、歓声をあげて這いよってきてくれるはずだ。顔を精一杯上に向けて。口が一文字に閉じられたときの平らなあごのなだらかな線。その輪郭が可愛くてわたしは大好きだ。
 生まれたときから扱いやすい子だった。しばらく姿を見せないでも、ひとりで自分の手の平と遊んでいられる子だった。動き回れるようになった最近は、セルロイドの起き上がりコボシのところへ行ってボクシングをするのがお気に入りだった。

 でもナナの歓声は聞こえてこない。別の部屋かしら。
 新しい遊びをみつけたの? 
 ふとテーブルの下に何かの気配を感じた。目の隅っこにそれが入る。そばに何かがこぼれている。点、点、点。光の届きにくい場所だけど、まぎれもなく赤い点々だ。
 わたしは身体が固まった。
 目を向けようとしてもなかなか顔が動かない。
 金縛りを解くときのように上半身と首から上を強引に捻ると、ようやく斜め下の角度に、仰向けにうごめく何かが見えた。丸々と太った短い足のようなものがゆっくりと不器用に動いていた。
 ナナの足に間違いないのに、「これは何なの」と咄嗟に思ったのは、それが真っ赤だったからだ。足だけじゃない。その上の、お腹に相当するあたりも、胸も手も、同じように赤く染まっている。
 眉間のあたりがツンときて、それから目の前にフォーカスがかかってきた。寝転がっている物体の、顔の部分が椅子に隠れて見えなかったのが、幸いだった。それでなんとか身体を持ちこたえられた。
 どのくらいそうしていただろうか。
 やがて横たわっていた幼児大のかたまりが寝返りを打って頭をもたげ、こちらを見つめてきた。顔の下半分が真っ赤に染まり、目だけがぎらぎらと輝いている。突然、歯のない口をにっと真横に開いた。わたしは息をのみ、かろうじて悲鳴をこらえた。
 いつもなら可愛くてたまらない笑顔なのに、わたしは思わず後ずさった。泣き叫んでいてくれればわたしはナナを抱きしめただろう。でも、そんなに血まみれになっているのに、どうして笑っていられるの。
 そういえばきのう病院で「赤ちゃんは痛みを感じませんから」とか言いながら小児科の先生が乱暴に注射を打っていたっけ……。
 ナナが足元に飛びついてきた。
 わたしは腰からストンと落ちてしまった。
 力が入らない。足を動かしても、ただもがいているだけだ。
 ぬるぬるとした感触が床を刷く。

 ふと、横の方から冷気がただよっているのに気がついた。
 ぼんやりと照明の明るさも感じられる。
 冷蔵庫が開いているのだと分かった。床に調味料類が散らばっている。その真中にケチャップのびんが、キャップが外れたまま転がっていた。
「ナナちゃん、甘くて美味しかったでしょ」
 わたしは泣きながらわが子を抱きしめた。

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