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カテゴライズされたい私、されたくない私 〜分類の存在意義〜

世の中はカオスです。
それはそれはもう、カオスです。

毎日、片付けるそばから散らかっていく部屋のように。(どうせまた散らかるし片付けんでエエか、となる)

そんなカオスな世界を少しでも秩序立て、管理運営しやすい社会を形成するために、人間が発明したもの。
それが「分類」と「ルール」です。

(執筆:ミッションパートナー ちひろ)

わざわざ認められずとも多様性に満ちた私たち

多様性。

まるで流行フレーズのように使われるこの言葉は、「働き方やライフスタイルの多様化によって~」などの枕詞がしばしば付きます。

あたかも、多様性というものが最近になって急に発生したものであるかのように。

でも、当たり前のことですが、私たち人間はそれぞれことごとく違っています。
誰一人、完全に同じ人間ではありえない。
一卵性双生児であっても。

その決定的に違っているところから出発している私たちは、社会を作る段階である程度分類され、決められたルールに従うようになりました。

その結果、ある一面から見ると、私たちはキレイに並んだとうもろこしの粒のようになりました。

どこを切り取るかでカテゴライズのされ方が変わる

私たちは、ありとあらゆる場面で分類(カテゴライズ)されています。
国籍、性別、年齢、年収、子の有無、住所や健康状態。

性自認や障害の有無、使用言語、利き手、名字があ行の人。

趣味、食の嗜好、朝型夜型、睡眠時間の長さ、インドアアウトドア派、アプリ課金見込みの有無、好きなタレント。

そう、分類さえも系統立てなければカオス状態になります。
どんな目的で、どこをどのように切り取るかで、分類の次元や数が変わります。
もちろん、その結果として私たちがマジョリティになるかマイノリティになるかも、変わります。

たとえば私は日本人という分類に入りますが、国内ではマジョリティ、日本を一歩出ればマイノリティです。

似た者同士が集まる心地よさと危うさ

分類の中でも、ソフトな分類は人間関係の形成に大きな影響を及ぼします。

趣味嗜好や考えが似通っている者同士が自然と集まりやすい、という現象があるようです。
類は友を呼ぶ、ということですね。
心理学的にも、似た者同士でいるほうが心地よいということが証明されています。

確かに、似た者同士が集まっていると、いろいろスムーズで楽しさも増す気がします。

自分の見たい映画を、相手も見たかったり。
ランチの店がすんなり決まったり。
好きなタレントの話で盛り上がったり。

でも一方で、近年SNSが主流になり、非常に限定された場面での似た者同士のつながりが危うさをはらんでいるという指摘も出てきました。
エコーチェンバー現象と呼ばれています。
主題が逸れるのでここでは詳しく書きませんが、ご興味のある方は調べてみてください。

ここで言いたいのは、自分にとって心地よい「分類」もあるということです。
その分類による共通項を見出すことで、人間関係が深まるチャンスにもなりえます。

外部からのカテゴライズ圧に違和感

では、自分にとって心地よくない分類もあるのでしょうか。
結論から言うと、私はあると思っています。

どんなときに居心地の悪さを感じるか。
・本意ではない方へ分類される。(性別、年齢など)
・分類の切り取り方自体に悪意がある。(頭が悪い、太っているなど)
・分類自体には問題がないが、その分類の結果、差別を受ける。(人種、障害など)

いずれも、自分を不利な状況に勝手にカテゴライズする外部からの圧力が、居心地の悪さの原因であるように思えます。
ときにはそれは、無意識から生まれたりもするので、余計に厄介です。

ここで、冒頭に話した「そもそも分類が生まれた背景」を思い出しましょう。
カオスな世界で、未熟な社会が自身を管理運営するために、発明したものでした。

そこに意味がついて、差別につながってしまっているならば、分類の使い方を間違えています。

画一的に分類しないと機能しなかった昔に比べると、社会は成熟してきています。

今言われている「多様性を認める」というのは、「一部の分類をやめる」「分類方法を再考する」という意味として捉えてもいいのではないでしょうか。

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