寄席

文化の日。ということで出向いた新宿三丁目。
どこに行ったかというと、末廣亭、つまりは寄席に行ってきた。

落語というと風情があるように感じるが、今までの私にとってはそんなものどこ吹く風、ただの子守唄に過ぎなかった。ただ文化の日という事もあるから、それっぽい娯楽がないかと考えて思い付いた。

学生の頃に課外活動的なので落語だったか歌舞伎だったかを見たことはあるが、落語だったか歌舞伎だったかも思い出せない程度の記憶だ。高校生にとっての落語は魅力的には映らない。高貴な、貴族の娯楽、あるいはお年寄りの道楽、そんな感覚だった。

だが、実際に拝見すると一転、とても面白い。興味のある人、百聞は一見にしかず。ぜひ見て、聞いてほしい。

しかし、何故面白いと感じるようになったのだろうか。学生の私と、社会人の私は何が違うのだろうか。考えていたのだが、

日常を生きること。

これを否が応でも意識しているからじゃないか。
高校、大学生の頃なんて、何故か自分は何者かになれるという自信と、プライドを抱えて生きていた。そんな自分にとって日常はつまらないものだし、将来のビッグスターになっている自分と対比して今の自分とのギャップに理由もなく苛ついたりもする。

だから、日常のささやかな笑いを再現したような落語は、小さく、地味で、しょうもない。もっとでかいことしたい。少年ジャンプの主人公のように、恋愛映画のヒロインのように。

社会人になって気づいたのは、自分は何も知らないこと。何もしてきていないこと。ポテンシャルとか、センスといった横文字はそれだけで若者を興奮させてきた。でも、社会に出れば現実がそれら全てを飲み込んで、いつしか苦渋になって目の前に存在している。  

適当に生きたいと、常にぼんやり思いながら生きている。でも、適当に生きることすら難しく、一体全体なんなんだという気持ちになる。

落語の中に時そばという噺がある。
偉そうに語っているが落語自体は全然知らない。にわかにすらなれていない。

簡単に話すと、
1人の客が蕎麦屋を騙して勘定をちょろまかすのだが、このやりとりを聞いていた男が、同じ手口で騙そうとして失敗するという噺。

落語を聞いていて思うのは、は非常に人間味があって、どこかあたたかいということ。
簡単に言えば詐欺をしようとした噺なのに、憎めない人柄を感じさせる語り口調が心地よくて、自分もそんな街に住みたいような気持ちにさせられる。

日常をゆるやかに生きることすら難しさを感じるようになったから、日常の大切さを本当の意味で気付いたからこそ、たとえ失敗をしても許されるような、あたたかくみまれるような社会で、のびのびと暮らしたい。
だから、そんな思いが少しでも体験できるような気がする落語を面白いと感じるようになったのかもしれない。


いくらだ?

十六文でございます

銭は細っかいよ構わないかい?
じゃ手を出してくれ勘定するからよ
いくよ、いいかい
一、二、三、四、五、六、七、八、
今何時だい?

九で

十、一一、一二、一三、一四、一五、一六



9がなけりゃ苦渋もない訳で。
そのくらい楽に生きたいもんだ。

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